最初の船橋はどこにあったのか?


▲「神通川 船橋の図」松浦守美(1824〜1886)  株式会社 源 所蔵

 


 神通川に最初に船橋が架けられたのは、高瀬保氏の「神通川船橋考」による慶長10(1605)年、あるいは、同氏の「富山船橋考」による慶長3、4年頃で、場所は木町(現在の松川といたち川の合流点付近。左ページ地図の「旧船橋①」付近)というのがほぼ定説とされてきたそうです。
 ところが、最近は、高瀬氏が信憑性の検証が不十分として取り扱わなかった絵図類〔特に、正保絵図写とされる「越中国富山古城絵図」(金沢市立玉川図書館蔵)〕を検討し、また、木町に船橋を架けたとする記録等がないことから、時期は利長が富山城・城下町を整備した慶長10年で、場所は、当時の富山城西の丸北西角(現在の安住橋東側)と対岸の船橋町中町通〔現在の場所は不明だが、「舟橋向ヒ古図」(富山県立図書館蔵)を現在の地図と比べてみると、北日本新聞社ビルの北、環日本海交流センター前の通りか。ただ、道が正確に重なる訳ではなく、編集部の推測である〕を結ぶ位置(左ページ地図の「旧船橋②」)とする古川知明氏の説が有力視されているようです。
 寛永16年(1639年)に加賀藩から分封され富山藩が成立。領域は、婦負郡6万石と、新川郡・加賀能美郡に4万石が飛び地としてあり、百塚山に築城を予定していましたが、ままならず富山城を借りる事になったといいます。その後、百塚築城を諦め、万治2(1659)年に飛地4万石を富山町とその近郊の新川郡とに替地して富山町を藩都とすることを願い出、1661年に幕府から富山城改築の許しを得て、城と城下町の整備が本格的に進められました。
 この間、承応3(1654)年の洪水で、川岸が南側(城側)へ大きく侵食されます。そのため、同じ西の丸北西角の位置に船橋を復元することが困難になったのではないかと古川氏は推測します。この時の幕府への申請内容(申請書は残っていないが、許可状は残っている)には、侵食部分の修理(船橋の再設置も含む)の事案が含まれておらず、現在の舟橋の場所(上の地図の「旧船橋③」付近)にある意味無許可で動かされたのではないか(古川氏)とのこと。1815年に完成した『肯搆泉達録』に、〔『舟橋旧記』に「橋は初めより今の所にて、後一丁ばかり上に懸り候へども、公儀へ御届なきゆえ、なりがたくて本へ復り候」よし。〕とあるのですが、傍点はこのことを言っているのではないかと古川氏。なお、『舟橋旧記』は現存せず、いつ頃書かれた書物なのかも不明のため、「橋は初めより今の所にて」「なりがたくて本へ復り候」は解読不能です。ちなみに、『舟橋旧記』以外に「本へ復った」ことを示す資料はないそうです。また、『肯搆泉達録』も『舟橋旧記』も伝聞・推測で書かれているので、間違っている可能性もあります。このあたりは、新しい資料が出てくるか、発掘による新発見などがないと難しいようです。
 いずれにしても、富山城や城下町についての今後の研究に期待したいと思います。

 

参考文献等/富山市埋蔵文化財センターHP、「富山史壇 151号 富山船橋の成立について」(古川知明著、越中史壇会発行)、「富山船橋考」(高瀬保著、『歴史の中の都市と村落社会』より抜刷)、「肯搆泉達録」(野崎雅明著、富山県郷土史会校注、KNB興産発行)、「船橋向かいものがたり―愛宕の沿革」(水間直二著、富山県の民衆史を掘りおこす会発行)、他

 

 


▲舟橋たもとの常夜灯

 


▲平成元年完成の現在の舟橋

 


▲舟の形がデザインされている

 


▲旧船橋②右岸側。安住川の東側。富山市立図書館(2019年に取り壊された)の近く。

 


▲松川といたち川の合流点。右が松川(旧神通川)

 


おすすめ