安政飛越地震と神通川

 今月の「富山の風景」でもご紹介している安政5年(1858)2月26日(現行暦の4月9日)の「安政飛越大地震」については、常願寺川関連の被害ばかりが言われていますが、神通川関連でも舟橋が流出するなどの大きな被害が出たといいます。
 以下、『神通川と呉羽丘陵』(廣瀬誠著・桂書房)からその時の様子を振り返ってみましょう。
 この地震の富山での震度は推定6で、富山城下町の家々は崩れ、土蔵も崩れ落ち、道路は各所で割れて水を噴き出し、青黒い砂を噴き上げたそうです。特に、神通川水神ゆかりの諏訪川原(現在も町名は諏訪川原)の藩士の家々は居住できないほどに大破し、噴き出した水で水浸しになった民家も多くありました。城の石垣も崩壊し、樹木もろとも濠になだれ落ち、濠にかかった登城のための土橋も崩壊しました。
 中堅藩士・野村宮内が書いたと推定されている『地水見聞録』によると、神通川は鱒漁の最盛期で、多数の舟が網を打って、夜を徹して漁をしていましたが、地震の震動で舟が転覆し、溺死者も出たそうです。
 また、神通川の舟橋のあたりは、夜が明けてにわかに流水が減り、有沢辺(現在の有沢橋のあたり。当時橋はない)も水が涸れ、歩いて渡ることができたといいます。
 ところが、午前10時頃、2mないし2m半の黄赤色の増水がドッと押し寄せ、いたち川も通常より2尺程も増水しました。このにわかの増水で、舟橋の南詰で男鎖・女鎖は2筋とも一度に切れて舟が流れたため、船頭町・七間(軒)町・木町の3町から数百艘の舟が追いかけ、ようやく草嶋村で引き留めたそうです。しかし、10艘あまりは行方不明となり、富山藩は舟橋の修理に苦労したそうです。
 ちなみに、この舟橋流出事故は、立山町野村集落伝来本の『安政五年大地震大洪水記』(筆者不明。おそらく村役人による)が記録していたそうです。
 また、神通川上流の飛騨船津から下の両岸は、それまで大木や枯木がうっそうとして昼夜もわからないほど暗かったのに、地震で川へ崩れ落ち、夜が明けたように明るくなり、山肌は朱にもおとらぬほど赤くはげたと『大地震大洪水記』では記されているそうです。

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