ローマも東京も初めから都ではなかった

中谷唯一

黒部市
美術文化振興協会会長

 

 学生時代を含め、44年間通った富山市。その間、神通川の大増水で、富山大橋や神通大橋が通れなくなったことや、36、38豪雪にも遭いました。36が凄く、昭和35年12月29日、北陸線はⅠ本しか動きませんでした。朝の一番列車が午後6時過ぎてようやく富山にたどり着き、そのまま翌年の1月2日まで職場に閉じ込められてしまいました。
 しかし、頭から絶対に消えないのは、昭和20年8月1日の夜の大空襲です。金沢市の犀川左岸の小高い野村練兵場に避難していましたが、頭上を通った大編隊が程なく富山に達し、しつこく焼夷弾爆撃、街全体が忽ち火の海と化しました。爆撃機は機体の腹を深紅に染めながら、旋回を続けていました。幾千という尊い人命を奪い、富山市を灰燼に帰しました。地球上から消滅してしまったのです。
 そこから、今日の富山に復興したのですから、信じられないような底力、粘り強さ、我慢強さ、闘魂です。戦後、最初に建った明治生命ビルは注目を集め、象徴でした。五艘側から市内を眺めますと、立山連峰ばかりが高々と聳える寂しい街の姿に、戦後生まれの学童たちは、富山のビルが少ないと、不満気に、いや淋しげによくつぶやいていました。
 しかし、最も淋しく、悔しく思っておられたのは一夜にしてすべてを焼き尽くされた大人たちだったでしょう。再建にかけた夢と努力は、子どもたちの夢とはかなり違っていたでしょう。何より素晴らしく思いますのは、戦争を知らない子どもたちの夢を封じ込むことがなかった大人たちの子育てです。北陸地方の人々は、忍耐力が抜群であると戦前よく言われたものです。そうした踏ん張りの努力によって、20〜30年の間に急激な変容を遂げました。五艘地区からの眺めは一変しました。先述の子どもたちの目に、そして現在の子どもたちの目にどのように映っているでしょうか?焼失から何と50年もかかるのです。戦争ほど愚かなことはありません。
 街の活気や賑わいは、少年や青年にとって最大の魅力です。その少年や青年のあふれている街に、夢と活気が満ち満ちています。大人(父母)たちの苦労や努力に感謝しながらも、それで可と致しません。それが若さであり、若い人たちの夢なのです。夢のある限り、発展し続けることでしょう。
 尊敬し愛してやまない富山市、ふるさとのように思う富山市です。子どもたちが青年たちが大きな期待と夢を抱ける富山市であってほしいのです。現在の富山を創り育んだ方のように、子どもたちの夢の膨らみが、代々受け継がれてゆき、一県都だけに満足することなく、全国のいや全世界の若者をひきつける、憧れの『文化の都・富山市』へ飛躍する意欲と夢と知恵を育ててほしいと切望してやみません。

※グッドラックとやま 平成 8(1996)年1月号「地域文化論」より・役職は当時のもの

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