筏橋碑(富山市)

飛騨街道・熊野川越えのいかだ橋

 文政6年(1823年)に石黒信由が製作した「新川郡一町一分分間絵図」によると、江戸時代後期、飛騨街道は下熊野において筏橋により熊野川を渡り、左岸の任海村の堤防沿いに通っていたという。ということで、出かけてみた。案内板によると、川越えには多くは渡し舟が用いられたが、任海では筏橋や鉄鎖でつないだ舟橋もかけられていたそうだ。碑は、文政元年(1818年)に建立されたもので、当時の和文で記された珍しい銘文とのこと。左側には小さい道標が建てられており、「右八尾、左高山道」の文字が見える。これは、木曾義仲の家臣・今井四郎兼平がこの地に宿陣した際、のちのちのために間道の道しるべにと建てたとの伝承がある。また、この碑の後ろには、かつて「任海の御蔵」と呼ばれる富山藩の米倉があったそうである。
 なお、「神通川と呉羽丘陵」(廣瀬誠著・桂書房)によると、上流の栗山集落には、無限軌道(キャタピラ)の発明者、高松梅治の住まい跡があるという。高松は明治44年に富山城址で無限軌道の公開実験をし、大正2年には陸軍の師団でも実験してみせ有用性を力説したが、採用されず、実験を見学したイギリスの駐在武官がこの発明を本国へ急報し、これがタンクとなり、後、アメリカでブルドーザーが開発されという。 


▲筏橋の碑(右)と、道標(左)。


▲近くから眺める立山連峰が美しい。


▲そばを流れる熊野川の支流。


▲碑の右側には地蔵蔵がある。


▲「右八尾」の文字が見える。


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