路面電車の南北接続を迎えて 誇るべき活性化の歩み①

宮口侗廸(としみち)

早稲田大学名誉教授

 

 この3月21日、新幹線の富山駅高架下で、南の市内電車と北のライトレールがつながり、南富山駅前・富山大学前と岩瀬浜が直通電車で結ばれた。森市長が開業式典で述べたように、この南北接続は、明治の神通川の馳越工事に始まる昭和の中心市街地の完成、戦後の大空襲からの復興と並ぶ大きな発展の契機となると、筆者も考えている。
 筆者は地理学者として、半世紀にわたって世界と日本の様々な地域を歩き、それぞれの地域の価値を考える中で、富山が、人の暮らす場としていかに素晴らしい価値を積み上げてきた地域かという実感を持つようになった。30年余り前から富山に戻り、毎週早稲田大学に通った背景にもそのことがある。何回かこの欄を借りて、過去も振り返りながら、富山の価値について改めて語らせてもらいたい。
 富山市の古くからの市街地に、戦前からの木造建築は全く残っていない。太平洋戦争末期の富山への米軍の空襲が、市街地のほとんどを焼き尽くしたからである。広島・長崎の原爆投下を別にすれば、まさに地方都市への最大の爆撃であった。
 ただその復興への歩みは早く、終戦間もない12月には、市の戦後復興都市計画街路計画が、政府の戦災復興院の告示第1号に認定されている。現在の城址大通りである県庁線を36mの幹線街路とし、直交する今の平和通りとで市街地を4分割して碁盤目状の街路区画を設定することが、いち早く決められた。そしてその実現のための、土地の交換分合などの大変な手続きを当時の人がやり遂げたがゆえに、富山市の街路はわかりやすいものになった。まさに富山人の進取の精神のたまものであったといえよう。
 富山市に路面電車が走ったのは大正2(1913)年、これは日本海側最初であり、東京に遅れること10年、金沢に先立つこと6年のことであった。2013年に100周年事業で、LEDに飾られた花電車が走ったのを覚えている方も多かろう。当時の堀川村で今の北陸本線の直江津への延伸に合わせて共進会(博覧会)が催され、富山駅前から今のいずみ高校の会場に向けて富山電気軌道が開業したもので、同時に富山駅前―総曲輪(丸の内)―西町という支線も開業した。電気はすでに大久保発電所に加えて庵谷第一発電所を建設していた当時の富山電気株式会社が供給したが、この共進会がまさに工業県富山の出発点になったといえる。
 当時は神通川の馳越工事は終わっていたが、旧流路跡はまだ残っており、今の松川のものより長大な桜橋に電車用の橋も併設された。ここにも、当時の富山経済界の意気込みを見ることができる。

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