くすりの富山が生んだ工業県富山 誇るべき活性化の歩み②

宮口侗廸(としみち)

早稲田大学名誉教授

 

 住みよさということがある時期から世の関心を集めるようになり、家の広さと持ち家率の高さで富山県が全国1位であることが全国的な話題となった。しかしその時に、富山の経済力そのものが全国屈指であるという事実はあまり語られなかったように思う。実は富山の実質的な経済力は極めて高く、富山市は数年前に勤労者世帯の実収入や消費支出で1〜2位を記録している程なのである。県レベルでも一人当たりの自動車の保有台数はずっとトップを争い、道路整備率は1位をキープしている。これらの事実は地元の人に必ずしも認識されていないのではなかろうか。
 この状況を支えているのは、製造業すなわち工業である。第2次産業従事者の比率は全国1位をキープしており、高卒の県内就職者の割合もトップクラスである。これらのことは人口に比して安定した就業の場が極めて多く、ゆとりある自宅から車で短時間の通勤が可能な、堅実で安定した暮らしが続いていることを意味する。
 日本を代表する工業県への富山の歩みは、明治32(1899)年の大久保発電所の完成に始まる。崖を落ちる大久保用水に目をつけ、電気の実用化に燃える密田孝吉青年を、富山電燈株式会社を設立して支援したのが薬種商の金岡又左衛門氏であった。密田氏自身も売薬業の分家の出であり、まさに富山の誇る薬業関係者によってわが国3番目の水力発電所がつくられた。事実としては多くの人がご存じと思うが、くすりという地場産業資本がその後の近代工業の隆盛の幕を開いたという点で特に強く記憶されるべきであろう。
 その後も発電所は建設され、大正6年には電気製鉄伏木工場(のち日本鋼管、現JFEマテリアル)の誘致を実現した。電気代を極端に安くし、富山の寒村に日本屈指の製鉄工場の立地を実現したのである。大正末期から昭和初期には速星の大日本人造肥料(現日産化学)や山室の不二越鋼材、さらに敷島紡績や日清紡など多くの紡績工場の立地へと続いた。生まれ育った高山線猪谷駅から富山までの間に多くの大工場があるのを見て、日本中がそうなのかと子供心に思っていたが、北陸線沿線も含めて、田園の中を走る鉄道の駅ごとに大工場があるのは富山県に限ることだと、その後知った。西富山駅にも、報国製鉄という電炉の製鉄工場があったのである。
 そしてくすりの富山は今も健在である。富山県の工業出荷額のうち医薬品は約15%で1位を占め、人口当たりの出荷額は全国で群を抜く。家内工業的な売薬の時代から、現代に求められる企業に脱皮していることも頼もしい。いま世界を震撼させている新型コロナウイルスに効くといわれるアビガンも富山で生まれたものである。


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