八尾和紙と野積川

 養蚕の町、和紙の町として栄えた「八尾」。『神通川と呉羽丘陵』(廣瀬誠著、桂書房)によると、越中和紙は正倉院文書にも「越中国 紙四百枚」と記され、古い伝統を持っている。越中和紙の三大産地は五箇山・蛭谷(びるだん)・八尾で、八尾では戦前600戸、戦後も約300戸の農家が紙すきに従事していたという。
 井田川の瀬音を聞きながら、冬の3カ月、楮(こうぞ)の繊維を水で溶かし、何段階もの複雑な手作業を経て作られる丈夫な紙。八尾和紙は特に売薬用紙として使われたが、現在は主に工芸品向けとなっている。
 廣瀬氏によると、昭和20年2月、歌人・吉井勇は戦禍を避けて八尾に逗留し、戦争が終わった10月に富山を離れたが、その間に「紙漉(すき)風景」と題して、「楮」「楮蒸し」「水浸し」「たくり」「雪晒(さら)し」「水洗ひ」「楮煮」「塵撰り」「楮叩き」「黄蜀葵(ねれのき、トロロアオイ)つぶし」「漉き」「押せ」「乾し」「雪晴」「草餅」と分けて15群62首の群作短歌を作り、こまかに紙漉のありさまを詠んだという。
 この伝統を継いで、昭和22年に越中紙社、同36年に桂樹舎、昭和60年に桂樹舎和紙文庫が吉田桂介氏により設立された。吉田氏は富山民芸協会会長として、歌人としては富山県歌人連盟理事として活躍されたという。なお、越中紙社の設立に際して、翁久允(おきなきゅういん。立山町出身の作家・ジャーナリスト。郷土文化誌「高志人(こしびと)」を主宰した)が山田昌作(大正・昭和期の実業家、北陸電力社長)を紹介したと(公財)翁久允財団のホームページ「平成30年度事業報告」にある。
 さて、井田川には、白木峰一帯の山々を水源とする野積川が流れ込んでいる。この野積を中心とする室牧谷・長谷・仁部谷・東谷の山谷は野積四谷と呼ばれ、朝廷直轄地であったという伝承がある。旧家は菊の御紋、桐の御紋の古文書を護持するそうだ。養蚕・紙漉を主産業とし、特に野積紙は八尾紙の代表として知られたという。
 また、井田川の別の支流である室牧川を遡っていくと、かつて右岸側に下ノ茗(したのみょう)温泉があり、富山藩10代藩主・前田利保(としやす)公もしばしば入浴したという。利保公は本草学(薬用に重点をおいて、植物やその他の自然物を研究する中国古来の学問)に打ち込み、採薬のため山野を歩き回ったが、下ノ茗はその重要拠点だったという。

 

 


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