富山市指定史跡 城生城(じょうのじょう)跡(富山市八尾町)
佐々成政に攻められ落城
▲道路からのぞむ城生城跡がある丘陵。
富山の城を調べていると、見慣れない名前の城があった。「城生城」と書いて、「じょうのじょう」と読む。案内板によると、城生という場所は、古くから越中と飛騨を結ぶ国境の要衝で、南北朝時代(14世紀半ば)に初めてここに城が築かれたという。城主は、附近の楡原保を領有した豪族・斎藤氏。約200年余にわたって、飛騨口の雄として婦負郡の南部に大きな勢力をふるったという。
ところが、戦国時代末期、越後の上杉氏と結んで、佐々成政に敵対したため、天正11年(1583年)、成政の攻撃を受けて落城した。
城主・斎藤信和は、飛騨へ落ちのびて、のちに徳川家に仕えたという。その後、佐々与左衛門や前田家の家臣・青山佐渡守、篠島織部らが城を守ったが、慶長年間(17世紀初頭)には廃城になったようだ。
神通川が笹津付近で富山平野に入り、大きく西に蛇行し、西側の丘陵裾をえぐるように北へ流れているが、この城はその丘陵上に築かれた。標高は、100〜124mで、麓の葛原集落との高低差は約50mあるという。
現在も、壮大な空堀や土塁、土橋などが本丸以下の郭跡とともに残っており、中世山城の遺構として貴重。
東に立山連峰、眼下に神通川や富山平野を一望することが出来る。
春になったら、ハイキングがてらでかけてみてはいかがだろうか。富山の新しい一面に出会える。
▲入口。案内板がある。
▲中に入って行くと、空堀のところに木々が伸びていた。
▲見上げると気持ちいい。
▲左の崖の上に本丸がある。
▲本丸近くから、下の空堀を見た様子。
▲山道が続く。
▲本丸など高い場所から神通川がのぞめる。
▲本丸跡にある碑。
▲対岸から神通川越しに見た城生城のある丘陵。