一里塚の跡(富山市、射水市)

吉作、黒河、三ケに残る街道の面影


 富山県歴史の道調査報告書―北陸道―(富山県教育委員会・1980年)によると、近世(1568〜1867)初期に北陸道本道に構築された一里塚は23基あったそうだが、現在そのほとんどは消滅し、その所在地さえ伝わらないものもあるという。ちなみに、現存しているのは、「境」(朝日町)と「坪川」(滑川市)のみという。
 一里塚は、江戸幕府が幕藩体制を維持するために、五街道を中心とする全国的な道路網の改編・整備につとめた際に作られた。
 一里塚は、一里(約3.9km)ごとに路傍の両側に築かれた円丘状の土盛りで、高さは約2間(1間は約1.8m)、直径は約5間あり、その中央に樹木が植えられて街道の道しるべとした。五街道では江戸日本橋を起点としたが、加賀藩では、越中・越後の国境「境村一里塚」を基点として設置されたことが、正保4年(1647)の『越中道記』などによって推察されるという。
 一里塚に植えられた樹種は、道中奉行の調査から、エノキ55%、マツ27%、スギ8%となっている。エノキは、どのような環境にもよく生育し、枝を張って繁茂し、神々しい樹相となるので、神霊の宿る樹木ともされ、旅人の安全祈念の対象として、植えられたようである。


▲「三ケ」の一里塚の跡。


▲下村方面に向かう藩主参勤交代の通路「往還」と、願海寺を経て富山に向かう通称「願海寺街道」の分岐点。この交差点に「右とやま、左いわせ」と記した道しるべがある。加賀藩主は、分家の富山前田氏の城下を避けるため、ここで左折し、下村へ向かったが、一般の旅人は富山へ向かうことが多かったようだ。



▲「黒河」の一里塚跡。射水市消防団黒河分団の入口脇に石碑がある。



▲「吉作」の一里塚跡を示す案内板がある。そばに一里塚跡を示すような広場がある。


▲神明社


▲愛宕神社


▲長光寺


▲願海寺城址


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