小出城跡、鶯野城跡(富山市)

神保×椎名、織田×上杉の戦いの舞台

 1520年頃まで、神保氏は神通川の西側を統治していたが、神保長職が1543年に神通川を越えて椎名氏の領地に富山城を築いたため、両者の抗争が本格化したという。
 1520年以降の両者の勢力分布は分かっていなかったが、鶯野城の発見により、長職が天文年間に入るまでに富山城から約7キロ東の白岩川左岸まで領土を拡大し、白岩川右岸の椎名氏支配下の小出城とにらみあっていたことが明らかになったという。
 天正9年(1581)3月、越中国の平定を進めていた織田信長家臣・佐々成政、神保長住が、御馬揃のため京に赴いている隙に、上杉家臣で越中国松倉城主・河田長親が小出城を攻めた。成政配下の侍大将で城主の久世但馬守が持ちこたえ、上杉方が沼地に攻めあぐねている間に成政らが帰還。両者は新庄あたりで戦い、織田方の勝利に終わった。破れた長親は松倉城へ撤退している。ちなみに、この戦いは、成政にとって越中での初めての戦で、この勝利は、信長の脅威であった上杉氏の越中進出を食い止めたことで重要な意味を持つという。
 小出城の城域は、南北約200m、東西約80mと推定され、鶯野城は、南北、東西それぞれ100mと推定されている。


▲小出神社。この周辺に小出城があったと伝えられる。地図の(1)


▲小出 玉永寺。水橋西大町にもある。地図の(2)


▲道路沿いのお地蔵さん。地図の(3)


▲小出川。地図の(4)


▲鶯野城跡。近年まで幻の城とされたが、2004年の調査で、玉永寺の由緒書「玉永寺史」の中に、同寺が天文年間(1532-1555)に、神保長職の指示で鶯野城の管理を任されていた記述や図面があることが発見された。かつての玉永寺跡にあった城跡という。地図の(5)


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