栂野彦八顕彰碑(富山市)

魚の行商禁止に死をもって抗議

 富山藩領四浦(西岩瀬・四方・打出・練合)の一つ四方港は、寛文12年(一六七二)、富山藩大坂廻米の積出港となったことから始まったが、後には漁港として繁栄していった。四浦からの諸々の魚、四十物(鮮魚と塩漬け加工品の間にある魚)のことごとくが、100文に付き5文の口銭(手数料)で四方浦で売買された。
 さて、富山藩では、従来、雑魚の類は、城下で自由に振り売り※することを許されていた。ところが、寛政2(1790)年、富山藩が財政危機となり、再建策の一つとして、浜揚げされた魚の一切を藩で管理しようとし、洩れ魚監視のため、四方街道に百塚番所を設け、振り売りを禁止しようとした。この時は、一応さたやみとなったが、寛政10年になって、「浜通りの者の内、外道を通って役洩れの魚を扱ったり、小商人が浜人より直に買い受けて町売りをしている。問屋へ登録した者のほか、浜辺へ行ってはならぬ」と、勘定所から申し渡された。四方浦の零細漁民にとって、これは大きな痛手であった。町民の尊敬を集めていた町年寄の栂野(とがの)彦八は、漁民の苦しみを黙視するのにしのびず、郡奉行に雑魚振り売りの黙認を嘆願し、ようやく聞き届けられた。
 ところが、文化3(1806)年に至り、郡奉行が湯原宗兵衛に代わり、振り売り禁止の実施に踏み切った。そして、洩れ売りの者を捕えて、愛宕牢に入れたため、四方町民は立ち上がった。町年寄の栂野彦八はこれをおさえて、同年12月19日、郡奉行所に参上し、嘆願書を差し出し、一歩も引かない構えで訴えた。しかし、奉行は断固として首を縦に振らず、さらに言葉を続けようとする彦八を「くどい。」と言い捨てると同時に足蹴にし、嘆願書を火鉢に投げ込み席を立った。言葉も心も通じない奉行の様子に、彦八は覚悟を定め、その場で腹を切って抗議した。45歳であった。話を聞いた富山藩・前田利幹(としつよ)は、その義侠に感じて、奉行を交替し、従来どおり振り売りを黙認することになったという。
 町民は、彦八を神として祀り、都賀比古神社を建てた。今は四方神社に合祀されている。四方神社の右奥には、顕彰碑があるので、機会があれば訪れてみてはいかがだろうか。
参考文献/富山市史 通史〈上〉、栂野彦八顕彰碑の看板、富山県史 通史編 Ⅲ、四方町を救った町年寄 栂野彦八物語(栂彦二百年祭記念事業奉賛会)

※2023/8/22修正


▲四方神社内にある栂野彦八顕彰碑。


▲四方神社。


▲顕彰碑の上にはまるい石が置かれている。


▲顕彰碑の左隣には、解説板もある。



▲四方漁港。たくさんの漁船がつながれている。

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