【知られざるもう一つの立山】明治の初めに立山カルデラを訪れた外国人たち
立山カルデラ砂防博物館
館長 今井 清隆
明治新政府が発した神仏分離令によって廃仏毀釈の気運が高まり、各地で仏堂の破壊が繰り返され、神仏一体の立山信仰も根本を激しく揺さぶられた。長らく続いた女人禁制も明治5年に解かれ、これをキッカケとして立山における宗教色は一気に薄れ、信仰のための登山から自然を賛美するスポーツ登山へと変化した。時を同じくして、富山県と長野県を結ぶ「立山新道」と呼ばれる山岳道路の開通で外国人たちが立山に「調査や探検」で訪れた。
ナウマン
ナウマンは、明治政府が明治8年にドイツより近代地質学を導入するために招聘したお雇い外国人の地質学者である。東京帝国大学地質学教室の初代教授に就任して、日本列島の地質調査を行い、日本最初の地形図を作成し「日本地質学の父」と称された。明治9年(1876)に地質調査のため立山と立山カルデラを訪れている。10年間滞在し、ナウマン象の発見や、フォッサマグナの提唱を行った。
サトウ
サトウは、イギリス人の外交官で、明治28年〜33年まで駐日公使。幕末から明治にかけて活躍し、通算25年間の滞在期間中に日英関係の進展に尽力した。明治維新の7年前に来日し、薩英戦争などの現場に立ち合っている。サトウという姓は、日本の姓とは関係がなかったが、親日家のサトウは、これに漢字を当てて「佐藤愛之助」と日本式の姓を名乗った。本人も佐藤の姓が日本人に親しみやすいものであったため、大きなメリットになったと云っていたらしい。明治11年には、信州から針ノ木峠を越え立山カルデラに来ている。ホーズと共著した「中部・北日本案内書」を発行し、外国人たちが旅行する際の手助けになった。司馬遼太郎は、ドナルド・キーンの対談集の中で、サトウは幕末の重要人物であったと述べている。
ローエル
ローエルは、アメリカの著名な天文学者である。火星に興味を持ち、私財を投じてローエル天文台を建設した。火星人や運河等のユニークな学説を発表し、世間の注目を集めた。後年の観測によりすべて否定された。しかし、晩年には冥王星を発見し、天文学の発展に貢献している。明治22年、能登旅行の帰りに立山温泉に立ち寄っている。紀行文で、立山新道や立山温泉を紹介している。著書「NOTO―人に知られぬ日本の辺境」は、当時の西欧社会に大きな影響を与えた。
ハーン(小泉八雲)
ハーンは、ローエルの著書「NOTO」に刺激されて来日する。明治23年来日、島根県松江中学校・師範学校に赴任し、1年3ヶ月で松江を去り熊本市の第五高等学校(嘉納治五郎)へ移り、明治29年に東京大学の英文学の講師となる。この時に帰化し「小泉八雲」と名乗る。小泉は奥さんの姓、八雲は出雲の国にかかる枕詞の「八雲立つ」に因むとされる。明治36年に退職する(後任は夏目漱石)。翌年に早稲田大学の講師となる(翌年54才で死去)。「ヘルン」という呼び方は、ハーンの別名で、自身が好んだとされ、「ヘルン文庫」の名前もそれに由来する。ハーンの著書や蔵書を集めた「ヘルン文庫」は、富山大学中央図書館にある。しかし、ハーンは富山へ来ていない。
ヨハニス・デ・レイケ
デ・レイケは、オランダ人土木技師で明治6年に来日し、約30年間にわたって日本の各地の治水事業を指導した土木工師である(お雇い外国人)。明治24年7月、富山県下が大洪水に見舞われ未曾有の被害がでた時に、調査のために国はデ・レイケを派遣した。約1ヶ月間滞在期間中、常願寺川を中心に視察している。富山市島村では21日間全村浸水した記録がある。デ・レイケの調査後、富山県知事・森山 茂は、大洪水の復旧のため、国の補助金と専門技術者の派遣を政府要人に陳情するため、70日余も東京に滞在した。常願寺川調査の実績を買われて、11月に再び来県したデ・レイケの設計により常願寺川の改修工事が始まった。デ・レイケの業績は、100年以上も経った今日でも燦然と生きている。将に治水事業で富山県を救った外国人技術者であった。
なお、デ・レイケは、カルデラの水源地調査の後に娘ヤコバを伴って立山に登頂した。ヤコバ13歳、語学が大変に堪能であったため、通訳として同行したのだ。外国人女性としては、立山登山第一号である。
ウェストン
イギリスのキリスト教宣教師である。 明治21年に初来し、日本各地で布教活動を行う傍ら、日本の山々を踏破し、美しい文章で日本の山々を世界に紹介した。明治26年には、ローエルの著書「NOTO」を読み刺激されて、信州大町から針ノ木峠を越えて立山カルデラを訪れている。明治38年の日本山岳会設立に貢献し、「日本近代登山の父」と称される。
立山カルデラを訪れた外国人達の思想と言動は、日本近代登山の幕開けや、その外の物事の考え方に大きな影響を与えたと云えるのでなかろうか。