5代藩主前田利幸〈としゆき〉公と宝暦事件

事件に関わった叔父・利寛〈としひろ〉

 12月号で、富山売薬を産業として育てた5代藩主・前田利幸公をご紹介した。利幸公は、『富山のセールスマンシップ 薬売り成功の知恵』の中で、著者の遠藤和子氏が「藩政230年間の中で最も善政をしいた名君」と称える人物。しかし、その利幸公の資料が、神通川原で焼き払われたという。なぜか?
 遠藤氏は、資料抹消のなぞを探り、その糸口として見つけたのが、『越中史料』の一文。
 〝宝暦8年(1758年)7月24日、富山藩士前田利寛及び藤井右門〈うもん〉等、公卿志士と通じて勤王を図る。事あらわれ、この日右門、位をうばわれる〟。
 なお、前田利寛は、利幸公の叔父(2代藩主・正甫公の8男)で、(利幸公が17歳で藩主になった時、利寛は42歳)、京都に出て学問の道に励み、幅広く社会情勢を捉えていたことから、利幸公が頼りにし、指導を仰いでいた人物。藤井右門は、越中加賀領小杉村(現在の射水市)出身で、向学心に燃え若くして京都へ出て、そこで神学研究をしていた利寛に出会い、養子となり、その後、利寛の世話で、正親町〈おおぎまち〉三条大納言公積〈きんつむ〉(宝暦事件の中心人物)の臣、藤井忠義〈ただよし〉の養嗣子となり、皇学所教授を務めた、という人物だ。
 前述の事件は、「宝暦事件」と呼ばれているもので、一般には皇権回復を志した尊王論者の少壮公卿ら(朝廷内の革新派)と、彼らに思想的影響を与えた竹内式部が、幕府との関係悪化を恐れた朝廷内の現状維持派(関白一派)により処罰された事件として扱われているという。
 しかし、当時、幕府の制度や手伝い普請の強要が引き起こした年貢の増徴が原因で、各地で何万、何十万という大規模な農民一揆や打ち壊し騒動が頻発しており、諸藩は幕府に対して少なからず不満を持っていて反幕蜂起の可能性は十分にあったという。また、「宝暦一記事」という記録には、〝桃園〈ももぞの〉天皇の内勅で、幕府に将軍職を奉還させ、9代将軍家重を日光に退かせる…万一皇居が炎上した場合は叡山にご臨幸される用意の事。…中院や西洞院などが大将となって前田利寛や金森能蔵らの兵を率い、信濃よりやってくる岩倉父子の兵と合体して彦根城に入城する。一手の烏丸や坊城らは、九州の柳川や鍋島、大洲などの兵の到着を待って大坂にて挙兵のこと…もし、諸侯の兵が上京するまでに幕府と兵端を開くときは、諸所を焼き払う事…また、龍造寺主膳や竹内式部、藤井右門らの軍師は、常に皇居に参内していること…〟とあることから、遠藤氏はこの事件を、「竹内式部に師事していた少壮公卿派と、前田利寛ら反幕尊王派とが、桃園天皇を擁して起こそうとした反幕運動」と位置づけている。
 この挙兵計画は、「玉座にあった連盟書が紛失して関白、近衛内前〈うちさき〉の手に渡り、事前に発覚」、公卿らは永蟄居や勤めの遠慮を命じられ、事件の首謀者・竹内式部は京都から追放され、藤井右門は位を剥奪された。また、利寛ら計画に関与した諸藩の有力藩士は幽居し、京都との交わりを断つことを命じられた。
 「式部たちの世直し運動は挫折したが、彼らの尊王論は、以後社会の底流で生き続け、幕末に至って火を噴き、明治の大変革を生んだ。宝暦事件は明治維新の起点となったのである」と遠藤氏は述べている。

 

焼き払われた利幸公の資料

 さて、宝暦12年(1762年)、利幸公の死去により、弟、利與〈としとも〉公が6代藩主となった。その3カ月後、突然、幕府から「日光霊屋と奥院の修覆手伝い」が命ぜられた。負担金は13万両に上った。富山藩は動転した。10万石の藩としてはあまりにも大きな負担額であった。
 その前年、巡見使がやってきていた。巡見使は、富山城下町の活気溢れる様子や、農村の静穏な暮らしぶりを目にし、利幸公の善政も耳にした。「平和で豊かな藩」と高く評価したことが、13万両もの普請負担につながったとも考えられる。しかし、富山藩では宝暦事件のしっぺ返しと受け取ったのではないか、と遠藤氏は言う。そして、あわてて利幸公に関する資料一切を抹消したのではないか、と。
 なお、右門はその後、お尋ねの身となったが、富山町にも何度も姿を現わし、「松井孔明堂」(松井屋)の売薬商人の姿で諸国を巡っていたが、最後は江戸の山県大弐〈やまがただいに〉の許に身を寄せ、この塾で甲府城や江戸城攻略法など過激な意見を述べ、明和4年(1767年)、「謀叛の陰謀あり」と訴えられて大弐とともに幕府に捕らえられ、処刑された(明和事件)という。


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