薬種屋 松井屋源右衛門

先祖は大伴家持と越中へ

 富山売薬の起源についての話で必ず登場する名前が、松井屋源右衛門である。
 『富山市史 通史〈上〉』では、富山売薬の起源について諸々あるとし、その一つとして、〝備前国(現在の岡山県のあたり)の医師・万代浄閑が、天和3年(1683)、富山2代藩主正甫に招かれ、反魂丹を調整し、元禄年間には正甫が諸国へ売り広める契機を作った。その反魂丹方書を近習の日比野小兵衛が預かり、その後2、3年を経て、城下町の薬種屋松井屋源右衛門に調整法が伝授された――〟という説を紹介している。
 この松井屋源右衛門とはどんな人物なのか調べていたところ、『元祖反魂丹』という本を見つけた。この本は、橋本友美氏が、松井屋源右衛門の子孫である荻原家の依頼で、同家に伝わる文書、過去帳などを調査、整理し、荻原みゆき氏の随筆とあわせてまとめた非売品の本である。
 それによると、先祖は、大伴家持が都から越中国司として任命された時についてきて、住みついたそうだ。その後、戦国時代の武士となり、天正10年6月5日、柴田勝家・佐々成政の攻撃で魚津城が落城した時に上杉方としていて、一同と切腹したという。その後、大和の国(奈良県)から縁故の者が集まり、皆で相談して、各地に薬草を植えさせ、干したり、キザミ方を教え、いろいろと世話をして、薬屋を創業したそうだ。
 大和国にはもともと縁者が多かったそうで、伊勢国(三重県のあたり)に本根伝兵衛合薬屋という薬屋があり、そこの人が、備前岡山の人で薬草に詳しい、武士で大変律儀な人物を、天正16年に富山へよこしてくれたという。親子で来て、姓は松井と称した。荻原家の先祖の吉兵衛は、その娘を嫁にした。ここから、屋号を松井屋としたのだという。
 余談だが、松井屋の手代で、富山売薬行商の始祖とされる八重崎屋源六は、八重津港から出た山崎という越中武士だそう。
 吉兵衛の嫁の父、松井氏は、万代常閑とは縁故であったので、常閑(8代?)も、備前から越中に、畑の薬草を見たり、薬の指導でしばしば見えたという。

 

松井屋で自ら研究した正甫公

 吉兵衛の長男の市兵衛は、今でいう研究所もつくり、調剤する所も建て、目薬や痔の薬、日本で最初の歯磨粉も作ったそうだ。
 松井屋源右衛門が、吉兵衛や市兵衛とどういう関係があるかはわからないが、正甫公より3歳年上だったそうで、逆算すると正保2年(1645)生まれとなる。
 天和3年(1683)、岡山の万代常閑(11代)は松井屋に来ていて、ちょうど正甫公が調薬に凝り始めたところで、源右衛門は常閑を伴ってお目通りしたという。常閑は伝来の秘法「反魂丹」を松井屋の調剤室で調剤して献進したところ、正甫公は大変喜ばれ、自ら常閑から製法を習い、「このような神秘な効能のある薬は秘密にすべきにあらず」と、朝から晩まで、松井屋の研究室で熱心に研究し、熊胆の鑑定まで覚えられ、薬草にも随分興味をもって、乾草の具合も厳しく調べられたという。
 ちなみに、正甫公は、松井屋の研究室のことを「志甫屋」と呼んでいたそうだ。ここは正甫公好みになっていて、床の間は立派で、部屋の飾り物・軸物・茶器類等、全てお城から運び込まれたという。
 荻原家松井屋の家紋は梅鉢で、この頃、正甫公から頂いたものと思われるとのこと。
 備前岡山から書生が2人で常閑を迎えに来たが、正甫公は常閑が戻られる事を惜しまれ、いたわしいくらいであったという。「来年は必ず又来て下さい、山田のお湯にお連れするから」と約束され、「山田の湯で、是非とも常閑さんと研究したい薬草もあり、お湯もよく体に効くので案内したい、又変わった話もあります」と、とてもとても名残りを惜しまれたそう。
 なお、正甫公が漢方薬研究に力を入れたのは、自身に持病があり、急病に苦しみ、晩年には藩医が18人に及ぶほどだったことが根本にあったようだ。
 正甫公の時代には、八尾の蚕種配置業も発展した。蚕種とは、蚕蛾に紙上に卵を生みつけさせたもの。蚕種行商は、翌年代金をもらう先用後利で、売薬の売り方の先駆をなしたという。飛騨への行商から始まり、化成期(1804〜1829)には全国の4分の1を販路とした。この発展過程は富山売薬の発展過程と非常に似ていて、時代も重なるという。
 また、正甫公は、八尾和紙を蚕種・売薬の必要に対して、用途別に多面的に発展させている。

 

 

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