香具師、松井一家

反魂丹宣伝に一役買う

 『富山のセールスマンシップ 薬売り成功の知恵』(遠藤和子著)によると、享保18年(1733年)に刊行された『江戸名物鹿子』には、当時江戸でもてはやされていた香具師として、反魂丹の宣伝と販売のために、居合抜きをやっている松井源左衛門と、曲独楽(独楽を使った曲芸)の芸をしている松井源水らの図絵が掲載されているそうだ。
 なお、香具師とは、「あるき医者」とも呼ばれ、古来から各地の市で山野の薬草を売っていた人。薬だけでなく、香具や匂袋なども売っていたので、香具師と呼ばれていたが、本来は薬師なのだという。「やくし」のくの音が省略されて「ヤシ」とも呼ばれるようになったとか。この他、禄を離れて生活に窮した武士が武芸を披露して薬を売ったところから野士(矢師)になったという説もあるそう。
 さて、居合抜きとは、気合と共に一瞬にして抜刀、相手を制する武術で、徳川時代には見世物化し、香具師によって演じられていた。
 また、源左衛門をモデルにした「絵双六」が江戸市中に出回り、これには、源左衛門を演ずる沢村長十郎と反魂丹売りを演ずる藤川平九郎の画が描かれていた。2人は、ともに享保年間に活躍した歌舞伎俳優であり、それぞれ舞台の上で江戸の名物、源左衛門の居合抜きを演じたのであろうと遠藤氏。この絵双六は、江戸庶民の間で広く愛好されたという。
 一方、源水は、浅草奥山に見物人を集め、曲独楽の芸を見せていた。彼の芸は「枕返し」といって、多数の木箱の枕を積み重ねて、手の上で様々な形に操るというもの。また、「源水コマ廻し」といって、博多から伝わった曲独楽に工夫を加えて編み出した、1本の麻ひもで目方5貫500匁(約3キロ)の大独楽を軽々と回す芸も披露していた。そして、享保11年(1726年)11月13日、将軍世子、家重(後の9代将軍)が浅草寺にお成りの時に、松井源水が本堂において曲独楽や枕返しの芸を上覧したことから、その後、「御成御用」の符を拝領し、代々浅草田原町の自宅に御用の高張提灯を掲げ、威勢を誇っていたという。
 江戸の名物であった源左衛門と源水の2人の前には、人々が黒山のように押し寄せ、薬の売れ行きはおびただしかったそうだ。
 同じ頃、大坂では松井喜三郎が居合抜きを、京都でも松井七郎平が蹴鞠の芸を演じながら、「越中反魂丹」の宣伝をしており、三都の盛り場において松井姓の人たちが反魂丹を宣伝していたことになる。

松井屋源右衛門との関係は

 さて、遠藤氏によると、彼ら松井一家と薬種商・松井屋源右衛門のつながりは定かでないという。一族なのか、あるいは、源右衛門が使用人または香具師らに松井姓を名乗らせたものか…。いずれにしても、源右衛門が香具師による宣伝を図ったのではと推測する。
 当時、問屋(卸売り)、仲買い、小売りと業態の分化が進み、「諸国商人売り」といって地方商人に商品を卸す問屋が増えていたことから、源右衛門は香具師たちに反魂丹の卸売りをして、その接触から思いついたのかもしれないという。そして、宣伝部隊として源左衛門、源水、喜三郎、七郎平らを宣伝効果のある三都に派遣。源右衛門の思惑は成功し、「越中反魂丹」の名は三都にとどろいた。
 ところが源左衛門は、享保20年以前に香具師をやめて薬種屋としておさまり、同じ頃源水は歯磨き売りに転じ、大坂での喜三郎や京都の七郎平も姿を消している。
 なぜか。
 遠藤氏は、富山売薬商人と香具師たちとは、商いに対する心構えや方法に違いがあるからではないかと分析する。富山商人たちは、「仏の願いにしたがい」、慈悲を柱として顧客の信用信頼を得るのに心をくだく。一方、香具師たちは奇抜な芸で人寄せをして、誇張煽動的な口上を述べながら購買心をそそる。源左衛門らは薬効と人柄で顧客の信頼感を得ようとする側と、販売のためだけ腐心する側との水と油のような違いに気づいたのではないか…、と。あるいは、このころに源右衛門が没していることから、富山売薬商人たちとの間で話し合いがあって中止することを促されたのかもしれないとも述べている。なお、このころから、富山売薬商人たちが配置薬商法を考え出しているそうだ。
 越中富山反魂丹は、享保期以前は一般に知られておらず、源左衛門ら香具師の宣伝によって一躍有名になったという。商いに対する姿勢には相違点があったとはいえ、一時期、香具師たちが反魂丹の宣伝と販売促進に協力してくれたのだと遠藤氏は述べる。


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