瀧廉太郎の従兄弟・瀧大吉が設計した富山の2つの建物

 日本の新しい音楽のさきがけとなった、瀧廉太郎。廉太郎の父・吉弘は、明治19年8月28日に富山県書記官(今の副知事に相当)に着任し、7歳になったばかりの廉太郎少年も富山市に転居した。
 さて、翌明治20年12月20日、上新川郡議事堂が完成。その式典に吉弘は臨んだが、「この落成式には、廉太郎の従兄弟・瀧大吉も関係者の一人として出席していたに違いない」と『瀧廉太郎』(大分県教育委員会発行)の著者、松本正氏は推測する。瀧大吉は、廉太郎の東京音楽学校(今の東京藝術大学)入学を支援したことでも知られる、建築界の創成期に活躍した建築家。工部大学校(現在の東京大学工学部の前身の一つ)造家学科を卒業後、警視庁御用掛を経て太政官会計局勤務となり、ジョサイア・コンドルの助手となった。ジョサイア・コンドルは、工部大学校の建築学教授として来日し、創成期の辰野金吾ら日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いた。のちに建築設計事務所を開設し、財界関係者らの邸宅も数多く設計している。鹿鳴館、ニコライ堂、三菱一号館、岩崎邸(茅町、高輪)、綱町三井倶楽部などの設計が有名。
 さて、前述の上新川郡議事堂は、現在、ユウタウン総曲輪の駐車場があるあたりに建てられていた。上新川郡議事堂の1カ月程前には、初代県議会議事堂が旧富山城内(現在の富山国際会議場とその前の道路あたりと推測)に竣工している。この2つの木造・洋風二階建の公共建築物は、瀧大吉が設計・監督した。
 前述の松本氏は、「言うまでもなく吉弘が県の書記官をしていた関係からだろう。当時大吉は、民間の業務に従事することにより飛躍せんとして官を辞し、帝国工業会社に入り建築部長に昇任したばかりであった。まだこれといった仕事をするに至ってはいない。吉弘を通じての話は、大吉にとって最初の大きな仕事であったろう」と述べている。
 音楽界と建築界のさきがけとして活躍した瀧廉太郎と瀧大吉が、明治16年に誕生したばかりの富山県に関係していたということは、記憶しておきたい事実である。

 

 

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