売薬調剤所の設立

売薬業者が団結

 今回も、遠藤和子著『富山のセールスマンシップ 薬売り成功の知恵』(サイマル出版会)をもとに、明治時代の富山売薬についてみていこう。
 明治5年(1872年)、現在の富山県と同じ範囲が新川県となり、明治8年(1875年)、ときの新川県令(県知事)の山田秀典が県下の売薬業の代表者を集めて、「これまでのような草根木皮をもって調剤しているだけでは、富山売薬産業は滅びてしまう。泰西文明の良方を摂取し、互いに協同結成して売薬の振起を図らなければならない」と訓示した。
 前の年、政府は明治に入ってから営業が自由化されて激増していた売薬商人の中に、有害な劇薬や薬効のない薬種を混ぜた薬を売っている者がいることを知り、売薬検査に乗り出し、「毒劇薬取締法」や「不良薬品取締罰則」を定めていた。そして、売薬の成分、配合を届け出させ、それを検査したうえで鑑札を下げ渡すことにし、従来所持している鑑札の返納を命じていた。山田県令はこの法令に富山売薬の前途を案じ、一刻も早く調剤会社を設立して、洋薬製剤を取り入れて、時代に即応しなければならないと考えていたという。
 富山町の業者達は、調剤会社の設立を模索していた時だけに、この山田県令の言葉に励まされ、直ちに調剤会社や薬学校、付属病院の設立を決議。明治9年9月、富山町に売薬調剤所「廣貫堂」が設立された。総理(代表)には、反魂丹役所の勘定方を務めていた旧藩士、邨沢盛哉(むらさわ・もりや)が推された。出資者は売薬業者であり、調剤した薬を売りさばくのも売薬業者。彼らは回商地から戻ってくると、次の回商分の製剤に当たった。
 売薬調剤所を設立して勢いに乗った業者達は、「次は薬学校と付属病院を設立するのだ」と意気込み、寄付金を集め始めた。ところがその矢先、新川県が廃止され、越中一国は石川県に編入されることに。このため、指導に当たっていた山田県令が富山町を去ることになった。薬学校と病院の設計計画は頓挫したが、売薬調剤所では薬の品質改良に努め、洋薬も取り入れ、官許の薬品を次々に増やしていったため、一時は混乱した富山売薬は順調に滑り出した。


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