神通川河川文化の顕彰を

新春特別企画

〜富山の誕生から現代につながる〜
神通川河川文化の顕彰を

 神通川の歴史とともに歩んできた富山市。
今なお、街のいたるところで、
その壮大な歴史の一端に出会うことができる。
富山らしさを全国にアピールして行く時、
この独自性が大きな魅力になるのではないだろうか。


▲神通川の流し網漁の様子 寛政11年(1799年)発行『日本山海名産図会 第4巻』より 富山市郷土博物館所蔵

※「日本山海名産図会」では、『海鱒川鱒二種あり。川の物味勝れり。越中、越後、飛騨、奥州、常陸等の諸国にい出れども、越中神通川の物を名品とす』として、神通川の鱒を最上品と位置づけている。

 

神通川から生まれた富山市中心部

 富山市の成り立ちに、大きな影響を与えてきた神通川。かつては、洪水のたびに姿を変えており、江戸時代の初めには今よりもっと西に河口があったと言われている。
 戦国時代の武将・佐々成政は、洪水で流れを変えた神通川を利用し、城の守りを固めようと計画。城の近くに移動してきた川を固定し、富山城の北側へ水を流すようにしたとの説もある。このため、富山城は水に浮いたように見え、「浮城」の異名もあったという。しかし、直角に固定された川は、大雨や台風のたびに氾濫し、城下に大きな被害を与えていた。
 明治22年から明治33年にかけては、毎年のように神通川が氾濫。明治34年、富山県はオランダ人技師、デ・レーケが立案した分流計画を採用し、馳越新設工事を始めた。これは、U字型にカーブした川をまっすぐにつなぐ新しい川を作り、流れを分けるというもの。新たに作られた川は、その後も度々起こった洪水のたびに川幅が拡大し、大正の初め頃には旧川筋にほとんど水が流れなくなった。(大正3年の豪雨が、神通川の直線化を決定づけたという)
 この廃川地が、富山市中心部を分断し、市の発展を阻害しているとして問題になり、今後の活用が新たな課題となった。そして、都市計画事業として、廃川地は富岩運河の掘削土で埋め立てられた。その際、すべてを埋め立てず、後世に神通川の川筋を伝えるため、右岸側の10数メートル〜20数メートルを残すこととなり、それが現在の松川である。

 


▲富山城のすぐそばを、神通川が流れている様子が描かれている。
 『富山御城下絵図(江戸時代)』富山県立図書館所蔵


▲右側の白っぽい部分が、埋め立てられた旧神通川。
 写真/富山市郷土博物館所蔵


▲昭和10年頃、松川に架けられたばかりの桜橋
 写真/富山市郷土博物館所蔵


▲松川に架けられたばかりの安住橋。右手奥に県庁舎が見える。
 写真/富山市郷土博物館所蔵

 

 この埋め立て工事により、神通川によって分断されていた市街地が南北につながり、昭和初期には、市街地の中心部に広大な土地が誕生した。また、これより先に、富山城の外堀が埋め立てられた(現在の総曲輪通り)。明治4年の廃藩置県により、富山城が廃城となったことで払い下げられたためだ。外堀の埋め立てに関しては、明治19年から21年をピークに、有志が神通川から石や砂を運ぶ「砂持奉仕」が行われるなど、市民にも大きな影響を与えた出来事だったようだ。
 富山の街づくりに大きな影響を与えた神通川。現在、埋め立て地は中心市街地として賑わい、松川が往時の面影を残し、静かに流れている。神通川とともに歩んだ富山市の歴史は、誇りうる貴重な財産と言えるだろう。

 

神通川と日本一を誇った名勝・船橋

 富山城のすぐ後ろを流れていた神通川に、船橋がかけられたのは慶長10年(1605年)ごろと言われている。当時は、富山も城下町として発展し、神通川を渡り富山町に入るルートは主要な街道(北陸街道)となっていた。しかし、水量の多い神通川に橋を架けることは難しく、船を並べてつないだ船橋となったのだろうと言われている。


▲『越中之國富山船橋の真景』 松浦守美
 株式会社源 所蔵


▲神通船橋古写真(明治初期) 富山市立郷土博物館所蔵

 

 神通川は洪水を起こすことが多かったため、船橋の管理はほとんどが藩の費用でまかなわれていた。また、いざという時には船橋を切り離して、橋が壊れるのを防ぐ手順もしっかり決められていたという。
 維持管理は大変難しかったが、64艘の船を鎖でつないだ様子は壮観で、船橋は「越中富山の名勝」として有名だった。そのため、江戸時代の代表的な絵師・歌川広重の浮世絵をはじめ、多くの絵に描かれたほか、十返舎一九の狂歌などにも詠まれている。
 この船橋の両岸にあって人々の道中を照らしていたのが、2基の常夜燈である。これらは、寛政11年(1799年)に富山の町年寄であった内山権左衛門によって寄進されたもの。戦災を免れ、現在も、船橋北町と七軒町に残されているが、この2基の間は約200メートルあり、当時の神通川の大きさを偲ばせている。
 明治15年に木橋に架け替えられ、その役目を終えた船橋。今は、松川に架かる舟橋に取り付けられた2艘の舟形が、その歴史を伝えている。

 

交通の要所としての神通川

 富山県と岐阜県を結ぶ通商の道として、古くから重要な役割を果たしてきた神通川。江戸時代になると、ますます流通が盛んになり、飛騨、八尾からは材木、炭、和紙、生糸などが、富山からは米や塩、魚などが運ばれていた。
 特に、江戸から明治にかけて、神通川といたち川の合流点は「木町の浜」と呼ばれ、富山城下の舟運の要地となっていた(現在の富山市今木町付近)。米や海産物、木材などを積んだ運搬船の舟着場があり、北前船が行き来するなど、非常に賑わっていたようだ。 

 


▲大正期、神通川を木町へ遡航する川船 
 ブラ富山アプリ(江尻写真堂発行絵葉書より)

 

 寛文12年(1672年)には、この場所から六千石余りが大阪に向けて積み出されていたほか、文化4年(1804年)には、平太船15艘、いくり船62艘があったと記録されている。
 また、富山城には、神通川に面した場所に御船蔵があり、公用船が繋留されていた。
 このように常に川と深い関わりのあった富山の人々だが、一方では水害で命を落とすものも多かった。神通川で水死した人々を供養するため、延享3年(1746年)には「万霊塔」を建立。今なお、献花が途絶えることなく続いているという。

 

神通川ならではの川魚漁「流し網漁」

 神通川には古くから川魚専門の漁師がおり、江戸時代から、全国的にも珍しい「流し網漁」という漁法を行っていた。2艘の舟の間に網を張り、上流から下流へ、川の流れにあわせて舟を流しながらマス漁をするもので、網の幅は約10メートル。漁師達は4人1組で、それぞれ舟を操る人、網を扱う人に分かれて、協力して魚をとった。
 しかし、明治時代には年間160トンに達したサクラマスの漁獲高も、護岸工事や河川環境の変化で近年は1トン前後に激減。今では、この伝統的な漁法の技術を知る漁師も、ほとんどいなくなったという。
 神通川最後の専業漁師である藤田清五郎さん(93)が最後に流し網漁に出たのは、平成14年(2002年)。だが、自分の代で途絶えてしまうのは寂しいとの思いが募り、後輩の漁師に声をかけ、現在は1年に1日、流し網漁を行う日を設けている。


▲神通川で流し網漁をする2艘の川舟。(本来は1艘に2人ずつだが、撮影のため4人ずつ乗船している) 写真/田子泰彦氏提供


▲大正期の神通川漁業信用販売組合市場
 写真/富山漁業協同組合所蔵

 田子泰彦氏(富山県農林水産総合技術センター水産研究所内水面課長)は、「ないすいめん」(全国内水面漁業協同組合連合会発行)の『最後の川魚漁師たち⑤」の中で、次のように述べている。
——神通川の春から初夏を彩った「マスの流し網漁」。川舟二艘で八の字型に流れ降り、サクラマスを獲る。こんな芸術的で、風情のある漁法が日本の清流以外に、いったいどこに存在し得ただろうか。 マス流しは、神通川が、いや日本が世界に誇れる文化であったと私は思う。富山市という大きな市街地そばの神通川でごく普通に、見ることができた。神通川沿いの土手から、市電の通る富山大橋などからごく自然に見ることができた。「マスの流し網」は、神通川、いや富山市にとってもなくてはならない風景だった。——

 

名物・ます寿しと神通川の恵み

 全国の人気駅弁の一つでもあるのが、富山の「ます寿し」。その起源は、享保2年(1717年)、富山藩が将軍・吉宗に献上した鮎のすしで、それ以来富山の名物となったと言われている。この「鮎ずし」は神通川で獲れた鮎を、ご飯に麹を混ぜたものに挟んだ「なれずし」だったという。
 十返舎一九の紀行文『金草鞋』の中には、「神通船橋のたもとには、鮎のすしを食べた旅人の頬っぺがたくさん落ちている」と記述されており、その有名ぶりがうかがえる。この鮎ずしが全国に広まったのは、売薬さんたちの地元自慢からであったというのも、富山らしい逸話である。
 明治以降、人々の好みも変わり、「鮎ずし」は今の「ます寿し」にと変化。当時、神通川の川沿いだった七軒町や諏訪川原、丸の内には、今なお多くのます寿し店があり、富山の食文化を伝えている。
 きわめて美味しいと評判で、明治期には皇室の御料場(ごりょうば)に指定されるほどだったという神通川の川魚(御料場に指定された川は長良川と神通川のみ)。鮎と鯉の指定だった長良川に対し、神通川は鮎・鮭・鱒の3種が指定だったとの記録があり、神通川は全国一の恵みの川だったと言えるだろう。
 現在は、神通川で獲れるマスの量が少ないため、ます寿しの原料はほとんど地元の鱒ではなくなった。しかし、富山の歴史をたどる時、「ます寿し」はまさに神通川の恵みから誕生したものなのである。


▲神通川の川べりにあり、賑わいを見せる鱒・鮭・鮎鮓の店の様子。
 『中越商工便覧』(明治21年発行) 富山市郷土博物館所蔵

 

 富山市街地の成り立ちに、大きな影響を与えてきた神通川。この川には、富山らしさの源がたくさんつまっている。北陸新幹線の開業も間近に迫り、ますます富山独自の魅力が求められているが、この神通川の河川文化を顕彰していく中で、オンリーワンの富山の姿が見えてくるのではないだろうか。

参考資料/「博物館だより」富山市郷土博物館、「富山県の歴史散歩」山川出版社、「ないすいめん」全国内水面漁業協同組合連合会、「神通川と呉羽丘陵」廣瀬誠 桂書房 

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