荒城の月のモデルは水の都・富山だ!

滝廉太郎生誕140周年記念・街づくりキャンペーン
荒城の月のモデルは水の都・富山だ!
平成元(1989)年2月号「楽聖 滝廉太郎独占タイムトンネルインタビュー」を再編集

 

 平成から令和へと、新しい時代が幕を開けた。30年前、昭和から平成になったばかりの平成元(1989)年1月11日、「荒城の月のモデルは富山城」との弊誌発の記事が北日本新聞に掲載。この記事は全国にも発信され、全国でも話題を呼んだ。さらに、日本タウン誌協会会長・角田氏からも「これこそ地域ジャーナリズムの真骨頂」との評価をいただいた。今回は、その原点となった本紙の特集記事を取り上げてみたい。

※このインタビューは、主に『荒城の月』(山田野理夫著・恒文社)を参考に、企画・編集させていただきました。


 

楽しかった富山での2年間

中村孝一(グッドラックとやま発行人) 滝廉太郎さんは少年時代を富山で過ごされております。今日はまず、富山時代の思い出からお話をお伺いしたいと思います。

滝廉太郎 私は東京で生まれ、官職にあった父の転勤で3歳の時に横浜に家族で移りました。7歳になると、父が富山県書記官(今の副知事格)に任命されたため、家族全員で北陸の城下町・富山に移り住みました。

中村 お住まいはどちらですか?

 官舎(※)が今の丸の内2丁目の旧富山城内にあり、そこに住んでいたんです。県庁も城内にあり、当時は総曲輪の官庁街として、知事以下、部長クラスの人が住んでいましてね。私は官舎のすぐ近くの富山城内にあった、富山県尋常師範学校付属小学校へ1年生として再入学したんです。

※父・吉弘氏の履歴書によれば、「富山県上新川郡富山千石町百九十七番地」(現在の千石町四丁目六番)の官舎とあるが、黒坂富治氏(富山大学前教授)は城内の総曲輪官舎に住んでいたとしている。(参照/『総曲輪懐古館』巧玄出版)

中村 その年(明治19年)の5月に、神奈川県師範学校附属老松小学校に入学しておられて、9月に富山に移って改めて入学し直されたわけですね。

 そうです。考えてみますと、富山での生活は2年余りでしたが、非常に強い印象がたくさん残っているんですね。

中村 滝廉太郎さんは、わずか23歳10カ月で早逝なさる運命ですので、7歳から8歳の約2年間、富山で過ごされた少年時代は思い出も多いでしょうね。

 ええ、懐かしいですね。小学校1年から3年というと、感受性の強い年頃ですし、私の短い人生を振り返ってみても、富山で受けた影響が最も大きかったように思われますね。
 小学校も同じ富山城内にあったので、毎日散歩に出かけて遊び、城壁の上に登って、立山を仰いだり、城下町の面影を残す市街を見渡したりもしました。お城の後ろを神通川(現在の松川)が流れ、ささ舟が行き交っているのを楽しく眺めていたものです。水がきれいだったことが忘れられないですね。時には、そうした私の姿を見つけた船頭さんが乗せて下さり、船遊びを楽しんだこともあります。
 本当に楽しかったですね。川がゆったりと流れ、ささ舟や帆船が行き交っている。今でも目をつむると、まぶたに浮かぶようです。

中村 私の目にも見えるようです。(笑)

 そういえば、あれはよく晴れた春の1日でした。陽が当たってポカポカと暖かく、岸辺でうつらうつらしている人も見られましたね。実は、「花」はあの頃を思い出して、作曲したんです。

中村 エッ、あの有名な「花」をですか?「春のうららの隅田川、のぼりくだりの舟人が——」と始まるので、てっきり向こうの川かと思っていました。

 ええ、もちろん歌詞はそうなっていますし、作曲したのは東京ですから、誰でもそう思っているんですけどね。私は何度も隅田川を見て、楽想を練ったんですが、どうしても少年時代に印象が残っている神通川(現在の松川)が思い出されてくるんです。実際、すぐ横を神通川が流れている小学校で1年から3年まで学んだのですから、無理もありませんけど。
 あののどかな富山の川が私の頭から離れないで、「花」のイメージを創っていたわけです。

中村 そうですか。これは新発見ですね。実は、私もひそかにそうじゃないかと思っていたのです。

 幼少時代に受けた印象って大きいですからね。

中村 なるほど。それで不朽の名曲『荒城の月』も、滝さんが富山城で遊んだ想い出をモチーフになさったということなのですね。

 ええ、私は父の転勤で、2年足らずで富山を離れ、その11年後、20歳の時に『荒城の月』を作曲したんです。

中村 富山城にはどんな思い出がおありですか?

 あの頃を思い出すと懐かしいですね。本当に懐かしい……。 ある夜、富山城内を散歩していて、城壁の上に輝く青い月光に、思わず目を奪われたものです。あの時の思い出が12年後に『荒城の月』を作曲する際、楽想となってよみがえってこようとは——わからないものです。人間の運命とは——いや本当に幸運でした。
 当時の富山城は内堀と外堀があって、今の4倍はあり、広大なものでした。大きな松や桜の木が生い茂り、城内はうっそうとしていましたね。春には満開の桜の下、市民が集まって酒宴がはられ、盃が酌み交わされるんです。後に音楽学校で詩人・土井晩翠さんの『荒城の月』の詩を見せられた時、あの時のことがよみがえり、インスピレーションがひらめいたんです。これは富山城のことが書かれているのではないかと目を疑ったほどです。実は晩翠さんが、会津若松の鶴ヶ城(若松城)を想って作詞されたものだったんですがね。

中村 まさに『荒城の月』の世界が、その頃の富山城にあったわけですね。確か『荒城の月』が誕生するいきさつは、東京音楽学校が文部省の依頼で中等唱歌集の編集を企画し、当時の文士にそれぞれ出題して、まず作詞を求めたことがきっかけでしたね。

 

勝者の“古城”と敗者の“荒城”の違い

 ええ、当時音楽学校ではまず「題」を決め、それを委嘱した文士に渡して歌詞を依頼しました。晩翠さんには『荒城の月』が渡されたのですが、当初、音楽学校では『古城月』と題を決めていたんです。ところが、晩翠さんが『荒城月』(のち『荒城の月』に補筆される)ではどうかと提案し、受け入れられました。『古城月』は歳月の流れのみで、敗者の悲哀はない。晩翠さんには、『荒城の月』でなければならなかったのです。
 祖父や父母から戊辰戦争で会津・鶴ヶ城の落城の経過を聞かされながら育った晩翠さんにとっては、どうしても『荒城の月』でなければならなかったのですね。

中村 なるほど。晩翠さんの回想文にも、「この題を与えられて、まず第一に思い出したのは会津若松の鶴ヶ城であった。という理由は、峰じるし白二筋の帽章を付けた学生時代、ここに遊びて多大の印象を受けたからである」とありますね。
 晩翠さんは、お父さんの膝の上にいた時から、会津戦争で鶴ヶ城がどのようにして落城していったかを聞かされ、彼の脳裏に焼き付いたイメージは、単に古い城にかかった月ではなく、戦いに破れ、荒れ果てた城に照り光る『荒城の月』だったのでしょう。

 そうです。実は私の経験からも、それを断言できるのです。富山城内で2年間過ごした後、東京へいったん戻った私は、父の仕事の関係で10歳の時大分に、12歳になると竹田に移り、14歳の時にまた東京に戻るという、忙しい生活だったんですね。そして、不思議なことに、竹田にも富山城のように城があったんです。竹田の城は岡城という山城で、文字通り、岡の上に城があるんですね。
 その後、東京に移って、音楽学校在学中に「古城」という詞を作詞したんですが、これはこの岡城を想像して書いたんです。800年以上も前に築城され、一度も戦いに敗れたことがない難攻不落の城と言われ、苔むした「古城」の印象そのものでした。ですから、晩翠さんの「荒城の月」の詩稿をいただいた時、心に高ぶりを感じながらも、私の書いた「古城」と、晩翠さんの「荒城」の違いに驚いたものです。

中村 古城と荒城では、確かにニュアンスに違いがありますね。

 ええ、そうなんです。『荒城の月』の歌詞はこうなっていますね。

 

一、春高楼の花の宴
  めぐる盃かげさして
  千代の松が枝わけ出でし
  むかしの光いまいずこ

二、秋陣営の霜の色
  鳴きゆく雁の数見せて
  植うるつるぎに照りそいし
  むかしの光いまいずこ

三、いま荒城の夜半の月
   変わらぬ光たがためぞ
   垣に残るはただかづら
   松に歌うはただあらし

四、天上影はかわらねど
   栄枯は移る世の姿
   写さんとてか今もなお
   ああ荒城の夜半の月

 

 このように晩翠さんの詩は、自然の中の城跡と、敗れた人の想いが息づいていて、大変優れた作品です。花、松、霜、雁、かづら、そして月がそれを表現しているわけです。それに対して私の「古城」は、勝者の想いを詩ったものですから、『荒城の月』の持つイメージとは大きな違いがあるんですね。

中村 なるほど。 

 岡城には、古城を詩作する題材があったんですが、晩翠さんの『荒城の月』のイメージとは違うものです。少年の頃、竹田の町の人の自慢話として聞かされた岡城は、島津の大軍3万にも破れることのなかった難攻不落の古城であり、富山城は戦国の世に上杉謙信や豊臣秀吉に何度も敗れた、〝敗者の悲哀のこもる、荒れ果てた城〟だったわけです。

中村 富山城址には、晩翠さんが題材となさった会津若松の鶴ヶ城と非常に似通った、歴史と精神が漂っていたというわけですね。

 ええ、私は鶴ヶ城は見たことがありませんでしたから、晩翠さんの『荒城の月』の詩稿を見て、まず第一に思い出したのは、子どもの頃聞いた富山城にまつわる戦乱の世の栄華と哀愁でした。城主・佐々成政に首をはねられた早百合姫のエピソードなど、富山城には鶴ヶ城と同様、まさに『荒城の月』の詩の世界があったと言えます。
 ですから、ただちに曲の湧き出ることを恐れたのです。古城と荒城のニュアンスの違い、急いで作曲すれば、上滑りの曲になるように思えたのです。そこで、『荒城の月』の歌詞をしっかり脳裏に刻み、音楽学校の行き帰りに曲を付していったのです。私が口ずさんでいるのを見て、首をかしげてすれ違う人もいましたよ。

 

溢れ出る旋律と眠れぬ夜

中村 廉太郎さんの頭には『荒城の月』は、何曲も刻まれていたのでしょうね。

 そうですね。何曲も浮かんでくるので、混乱していました。富山城で遊んだこと、桜の花の下での宴、酌み交わされる盃、そこにさす影、松が大きく枝を張っていましたね。そして夕方、城壁の上を雁が何羽もガーン、ガーンといって飛んで行く、やがて青白い月の光がお城や木々を照らし出し、昔の栄枯を物語ってくれる。
 富山城址の懐かしい記憶が蘇り、『荒城の月』の詩の世界がだぶって浮かんできたものです。

中村 なるほど…、やはり富山城がモチーフに…。

 眠れぬ夜を過ごしていましたが、楽想がはっきり浮かんでくると、あとは一曲に整理することでいいのです。脳裏の中から曲を解き放すには——。五線紙を広げ、曲を書きなぐっていました。

中村 『荒城の月』誕生の瞬間ですね。興奮しますね…これは。

 作曲し終えると、夜明けが待ち遠しくて仕方がありませんでした。家にピアノがありませんでしたから、早く学校へ行ってピアノに『荒城の月』の譜をのせたかったのです。空が白々としてくると、家を飛び出して学校へ急ぎました。

中村 後年、音楽学校の小使いさんが朝早く、廉太郎さんが門内に駆け込んでこられたので、何があったのかと驚かされたと回想していますね。
 ところで、『荒城の月』についてある音楽の本に「このごろは『君が代』を知らない子どもがいるそうだが、『荒城の月』を知らないものはまああるまい。もう肉体化されて、これこそ日本民族の歌という感じがする」と書かれていましたが、本当にその通りですね。

 そう言ってくださると嬉しいですね。晩翠さんの歌詞にある、戦いに敗れた敗者の悲哀が、日本人の魂の琴線に触れたのでしょうね。

中村 なんといっても『荒城の月』は、曲と詞が一体となった日本を代表する不朽の名曲だと思います。他に富山を懐かしんで作曲されたものというと?

 

富山の思い出が数々の作曲のモチーフに

 たくさんありますよ。富山の雪は特に忘れられないですね。大雪になろうものなら大喜びで外に飛び出して、雪だるまなんか作ってね。雪は楽しい遊び相手でしたから。「雪やこんこん」はそうした懐かしい富山時代の作品です。
 それから「かちかち山」はおばあちゃんが雪の降る夜「むかしむかし」と言って、よく話を聞かせてくれましたので、それを思い出して作曲しました。
 また小学校の遊戯会が父兄を招いて開かれた時、桃太郎の話をしたんですが、これが先生からも褒められるくらい好評で、後で「幼稚園唱歌」を作曲する時、そうした富山時分が懐かしくて、「桃太郎」を作詞作曲したんですよ。

中村 なるほどね。

 それに、秋に渡来し翌春まで姿を見せる雁の鳴き声が印象に残っていますね。ガーン、ガーンあるいはカリカリと聞こえ、沈黙した富山城を照らす月の夜には、りょうりょうとして特に鋭く聞こえ、今も耳に残っています。その時の思い出を作詞作曲したのが「雁」なんですけどね。

中村 素晴らしい!曲があふれてくるんですね。

 まだあるんですよ。「お正月」の曲も富山時代の作品です。

中村 あの「もういくつ寝るとお正月、お正月には凧あげて、コマを回して遊びましょう」という曲。お正月が早く来てほしいという、子供たちの気持ちがとてもよく表れていますね。

 それから「鯉のぼり」。この曲は、富山から東京に移る時——その日は明治21(1888)年5月1日の真っ青に晴れ渡った日だったんですが——、人力車に乗っていて商家の屋根に鯉のぼりを見つけたんです。富山にも節句がくるんだなあと、その時思いましたね。そういう懐かしさが「鯉のぼり」を作曲している時に思い出されて、胸がジーンとしてきましたよ。

中村 なるほど。廉太郎さんにとっては、富山は心のふるさとなんですね。どの曲を作曲する時にも、懐かしい富山時代が思い出されていたんですね。
 今、富山は歴史と伝統に裏打ちされた文化の街、『荒城の月』の名曲が流れる〝水の都〟をイメージして街づくりを進めていく方向にあるのですが、滝廉太郎さんのお話を伺い、大変勇気づけられ、希望を持つことができました。

 『荒城の月』を作曲した後で、文部省から派遣され、ドイツのライプツィヒへ留学したんですが、その街が歴史と伝統の上にしっかりと築かれているのを見て感動したんです。そこには「音楽の街」としての薫りと風格があるんです。富山も歴史と伝統を活かし、素敵な街になるといいですね。


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