“夢を現実にした街”はこうして誕生した!
■ グッドラックとやま 街づくりインタビュー
・インタビュアー 中村孝一 (グッドラックとやま発行人)
世界中からコンベンション客や観光客が訪れる街、アメリカ・テキサス州のサンアントニオ。その魅力は、街の中心部を流れる川を生かした、ユニークな街づくりにあった。この経緯をまとめた「サンアントニオ水都物語」の著者、バーノン・G・ズンカー氏から、その誕生の秘密を伺った。
中村 このサンアントニオ川の開発にあたって、発案者のロバート・ハグマンは「単なる小川として開発するのではなく、アメリカのベニスを目指す」という、はっきりした考えを持っていたんですね。
ズンカー そう、ゴンドラを浮かべ、それに乗って楽しもうと。そういった彼の情熱に心動かされて、私は本を書く気持ちになったんです。開発に携わった他の方々は、利益や見返りを求めたんですけど、ハグマンは、ただ純粋に情熱を注がれたんです。
中村 彼はどのようなイメージを描いていたのでしょうか。
ズンカー 〝自然の美しさと商業的活気”そして〝川の特色と魅力、歴史性、古い界隈生の保存”といったことが、彼のリバーウォークのテーマでした。〝他に例のない雰囲気を創造する”のが彼の夢だったのです。
中村 お店の正面を川に向けた、ユニークで素晴らしい街は、どのようにして生まれたのでしょう?
ズンカー そうですね。1941年にリバーウォークができてから、少しずつ進めてきました。ただ、決定的な理由というか動機は、やはり、1968年の「世界万博」がここで開かれたことです。6カ月間は川に向けてお店が並んでいたんですが、万博が終わると撤去して寂しくなったんです。それを見て、川を開発していく上では、お店を川に向けたほうがいいと。みんながそう思うようになり、関係者に働きかけをして、今のようになってきたんですね。
中村 リバーウォークの誕生は、洪水がきっかけだったとか…。
ズンカー そうです。1921年の集中豪雨による洪水が、サンアントニオ川の堤防を越えて都心部を襲ったんです。50人以上もの死者が出て、その時、住民たちが洪水対策をと市に働きかけて、バイパスができたんです。
中村 サンアントニオ川のリバーウォークは、上流側と下流側にそれぞれ水門を作ったことによって可能になったんですね。富山の松川の場合は、上流の水門で既にゼロカットできますが、下流側でいたち川と接続しているため、大雨でこの川が増水すると最大3・5メートルにもなり、松川へ逆流するんです。そこで、松川といたち川の接続部分に水門を作ることができたら、いたち川からの逆流をストップできるのですが…。
ズンカー 松川・いたち川は、サンアントニオ川に非常に似ていますから、いろいろと研究されたら良いと思います。
中村 わかりました。どうもありがとうございました。
■バーノン・G・ズンカー
「サンアントニオ水都物語」
(都市文化社・1990発行)著者