中心部活性化は「富山の顔」づくりから

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 時代が大きな転換点を迎えている今、多くの都市の中心部で空洞化が進み、街づくりのあり方が模索されている。コンパクトシティを掲げ、公共交通の整備や中心部でのイベント開催など様々な取り組みを実施し、各地の注目を集めている富山市。さらに、街の中心部にその地域らしさを具現化した魅力的な空間があれば、地域住民は誇りを持つことができ、ひいては多くの人々を魅きつけることができるのではないだろうか。


 

街の中心部に「顔」となる空間を

 各地で中心市街地の空洞化が叫ばれ始めてから、早20年以上の月日が経った。行政は打開策として様々な取り組みを行ってきているが、社会構造の変化、少子高齢化の進行など多様な要因がからまりあっており、画期的な活性化策はなかなか見出せないのが現状だ。
 以前に、経済評論家の堺屋太一氏は「地域に求められているのは、誇りを持って地方に住む楽しさを、いかにつくるかだ」と指摘。また評論家の井尻千男氏はまちづくりに関する講演の中で、「どんな街でも中心を大事にしたい。中心の散歩道でもいいし、あるいは付加価値の高いレストランやカフェ、ブティックがある程度そろっているポイントでもいい。その長さは500メートルで十分。そういう中心があると、人はファッション感覚を含めてすべて洗練される」と述べた。
 日本国内で中心部に独自の雰囲気を持つ魅力的な街と言えば、小樽、倉敷、高山、小布施などだが、これらの街は全国的にも知名度が高く、観光客も多い。また、街の人口の推移を比較すると、小樽、高山は高齢化による自然減少などで下降傾向にあるが、倉敷、小布施の人口はほぼ横ばいであり、街の活気が維持されていると言えるだろう。
 富山市の人口もここ数年は約41万8000人程度で推移しているが、今後は自然減少が加速すると見込まれており、さらに街の魅力を高めて「住みたくなる街」を目指し、転入者を増やすことが求められている。(『富山市人口ビジョン』 2015年9月 富山市企画管理部企画調整課発行より)
 このような中、富山市では平成19(2007)年に「富山市中心市街地活性化基本計画」を策定。現在は、「人が集い、人で賑わう、誰もが生き生きと活躍できるまち」を目指して、第3期目の基本計画が進行中である。

 


▲富山城址公園の「親水のにわ」をゆったりと進む松川遊覧船。

 

中心部の自然・歴史・文化空間を生かす

 弊誌では、これまで市民や有識者、経済界の代表者等と街づくりに関する座談会を重ね、様々な意見や要望を伺ってきた。そして、一貫して提唱しているのが、富山市中心部の松川べり一帯を、どこにもない魅力的な空間に創造することによる「富山の顔」づくりだ。
 松川は、大正時代まで流れていた神通川の名残りをとどめる川であり、現在、この廃川地には県庁や市役所、県民会館といった富山の中枢を担う建物が建つ。神通川は戦国時代に富山城の外堀として利用され、江戸時代には64艘の笹船をつないだ船橋が架けられている様子が、越中の代表的な名所として浮世絵に描かれるなど、富山の歴史とは切り離せない重要な川。また、作曲家・滝廉太郎が富山城址にあった小学校に、約2年間通っていたことから、『荒城の月』の着想を得た場所ではないかとのロマンも広がる。
 昭和63(1988)年4月、松川遊覧船が運航を開始したことを皮切りに、富山城址公園の再整備も進められ、「富山の顔」として評価が高まってきた松川べり一帯。自然・歴史・文化を活かし、さらに魅力的な空間へと進化できるか、今後の動きが注目される。

 

中心部の川を活かしたユニークな街

 中心部に街の顔となるシンボリックなゾーンを創り、街のイメージを高めた街の最も代表的な例が、アメリカ・テキサス州のサンアントニオ市だ。この街は街の中心部を馬蹄形に流れる川べりに、数十年をかけて、リバーウォーク(河畔の遊歩道)と洗練されたデザインの街並(レストランやカフェ等が入居)を配し、夢のような雰囲気を創り出し、年間1400万人を迎える大観光都市に生まれ変わったことで有名である。
 リバーウォークの建設は、1921年に発生したサンアントニオ川の洪水が、市の中心部に大災害をもたらしたことがきっかけだったという。
 対策を迫られたサンアントニオ市当局は、ダムの建設、河川各所での直線化や拡幅、ショートカット水路の新設とともに、馬蹄形の大湾曲地帯の埋め立てによる道路建設の計画を発表。しかし、それを知った婦人団体とサンアントニオ保全協会が、自然のままの水路を保存し、大湾曲地帯を救おうという運動を始め、そうした中で出された提案の中に、地元の新進気鋭の建築家、ロバート・ハグマンの都市公園化構想があった。

 


▲ヒルトン・ホテルの前にかかるロマンチックなアーチ型の橋と遊覧船。(アメリカ・サンアントニオ)

 

魅力的な都市デザインで全市民に利益が波及

ハグマンは、3年間ニューオーリンズで過ごした後、生まれ故郷のサンアントニオ市に戻ってきていたが、ニューオーリンズにいる間に目にした保存事業に感銘を受けていた。彼が、保存協会の当時の会長に自分の計画を話したところ、会長はハグマンの提案を討議する集会を準備するように、市の行政スタッフに働きかけた。その会合が契機となって、川の将来を決定づける具体的な事業と運動が始まったのである。
 ハグマンはその時、次のように自らの考えを述べた。
「私は以前、スペインの古い街の案内書を読んだことがあります。そこには乗り物が侵入してこない狭くて曲がりくねった通り沿いに、一風変わった雰囲気や魅力的な入り口をしつらえた、繁盛している店舗やクラブ、銀行そして喫茶店などが軒を連ねていました。…(中略)…われわれの町に、このような通りがあれば、どんなに素晴らしいことかと思いました」
 ハグマンは、ベネチアのようなゴンドラ風のボートを浮かべることも提案した。
「爽やかな夜に、ボートに乗っているところを想像してごらんなさい。オリーブのいい匂いやスイカズラの気持ちのよい香りが、微風に乗って運ばれてきます。古風な街灯の光が川面に幻想的な影をおとしています。ソフトムードの音楽が漂っています」
 ハグマンの計画は採算面も考慮されていたが、単に営利を追求するものではなく、静かで植物が生育するのに適切な場所を備えた、サンアントニオ川の自然の美しさを保ち続けることも含んでいた。開発が進めば進むほど、サンアントニオ川の自然の特色が保たれ、その価値が高まる計画であった。
 このハグマンという1人の建築家が描いた夢は、その後サンアントニオ市民の夢となった。そして、石畳の小路、橋、樹林、植物、店舗、喫茶店、ナイトクラブ、リバー劇場、マンション、ホテルといった彼が描いたデザインの大部分が現実となり、市民が誇る、そして多くの観光客やコンベンション客がその雰囲気を味わうためにやってくる、魅力的な空間が創り出されたのである。
 また、人口も2000年には約114万人、2016年には149・3万人と飛躍的に増加。現在は、多くのアメリカ国民に「かけがえのない土地」「ロマン溢れる街」として受け止められているという。
 ハグマンが最初に計画を発表した際の「この計画はサンアントニオ市全体にもかかわる都市改造であり、結果として、全市民に対して最終的な利益として跳ね返ってくるに違いありません」との言葉通りになったのである。

 


▲リバーウォークの水を引き込んで建設されたユニークな複合施設「リバーセンター」。ホテル、商業施設、レストラン、劇場を備え、賑わいのある水辺を創り出している。

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