富山城の歴史・自然を活かした富山城址公園に

 富山市の「顔」であり「シンボル」でもある富山城址公園。戦後、整備するにあたって東京の日比谷公園をモデルにしたために、多目的広場や日本庭園、西洋庭園、野外劇場が造られ、どっちつかずの公園になってしまった。
 そんな中、松川べりの「親水のにわ」をはじめ、赤い欄干が美しい、反りを持った景雲橋が池に映る姿は、訪れる人の心を癒すとともに、大切な撮影スポットになっている。
 今回は、日本を代表する名園の魅力を紹介しながら、今後の城址公園整備のヒントを探ってみたい。


 

栗林公園
 自然と歴史のハーモニー

◆所在地 香川県高松市
◆歴史 江戸時代前期、高松藩主・生駒高俊が別邸を築いたことに始まり、その後、藩主となった松平頼重が本格的な造園に着手。5代藩主・頼恭の代に至る約100年の歳月にわたり、歴代藩主が手塩にかけて完成させた。
 1875(明治8)年、県立公園に定められ、一般公開。1953(昭和28)年には、文化財保護法により特別名勝に指定されている。

 

▼築山「飛来峰」から南湖、偃月橋、掬月亭を望む眺めは、栗林公園を代表する景観だ。

 

▼一歩進むごとに新しい景色が展開し、人々を魅了する。

 

変化に富む一歩一景の庭園美

 小堀遠州流と言われる純日本風の池泉回遊式庭園「南庭」と、明治時代の庭園の雰囲気を宿す「北庭」に分かれている栗林公園。その完成された美しさは、「日本三名園」とされる水戸の偕楽園、金沢の兼六園、岡山の後楽園よりも「木や石に風雅な趣がある」と言われるほどだ。
 東門から入ると、左手に広がるのが「南庭」。100年にわたる歳月と歴代藩主の思い入れが造り上げた小堀遠州流の珠玉作とされる庭園だけに、緑と石と水のみごとな調和が「一歩一景」の中に現れ、茶亭や吾妻屋、石組みの佇まいに江戸の美学のふところの深さを感じさせる。
 また、庭園の外の山や樹木などの風景を庭の一部として取り入れる借景の手法を取り入れたことで、より奥深い景観となっているのが特徴。庭園の西に位置する紫雲山が、背景として重要な役割を果たしている。
 さらに、四季折々の変化を見せてくれる自然の姿からも、移ろいゆく時間の変化を楽しむことができ、その深遠なる世界の奥には、目に見えるもの以外に美しさを求める「幽玄の美」が潜んでいる。

 

特色ある意匠の数々

 栗林公園の平庭部の広さは、東京ドーム3・5個分の約16・2ヘクタールで、文化財庭園としては、日本最大の広さを誇る。この広大な敷地に6つの池、13の築山を有するが、庭園の西に位置する紫雲山が、背景として重要な役割を果たしている。また、園内には様々な意匠があり、鑑賞ポイントとして、人々の目を楽しませてくれる。
【飛来峰】
 富士山に見立てて造られたといわれる築山。山頂から見下ろす眺めは、栗林公園を代表する景観として知られる。
【掬月亭】
 「水を掬えば月が手にある」という中国唐代の詩の一節から命名された、庭園の中心的施設。歴代藩主が大茶屋と呼び、最も愛用した建物でもある。座敷を巡るにつれ、劇的に庭の景色が変化し、その計算された景色の対比は見事だ。
【偃月橋】
 園内で名のある15橋のうち、最も大きい橋。弓張りの月が湖面に影を映す様の姿からこの名があり、反りを持った美しい大園橋である。
【旧日暮亭】
 江戸時代初期の大名茶室の様式を今に伝える建物で、茶道・三千家の1つ武者小路千家が誕生した頃の造りともいわれる。
【鶴亀の松】
 110個の石を組み合わせ亀を型どった石組みの背中に、鶴が舞う姿をした黒松を配したもので、園内でも最も美しい姿をした松。
【梅林橋】
 別名「赤橋」と呼ばれ、緑一色の湖景に一点朱色が鮮やかに映え、附近庭景に対する見事な引き締め役となっている。

 

三溪園
 傑出した意図と造形力

◆所在地 神奈川県横浜市
◆歴史 美術愛好家としても知られる実業家・原富太郎によって、1906年(明治39)年に造園され、一般公開された日本庭園。名称の「三溪」は、自らの雅号。
 1945年(昭和20)年に空襲で大きな被害を受けるが、原家から庭園の大部分を譲り受けた三溪園保勝会が復旧工事を開始。1958年(昭和33)年に復旧工事が完了し、ほぼ昔の姿を取り戻した。2007年(平成19年)、国の名勝に指定された。

 

▼欄干の老朽化にともない、復元修理が行われて往時の姿が甦った三渓園の橋「亭榭(ていしゃ)」。

 

素朴な自然と風雅の景

 造園主・原三溪が、存続の危ぶまれた歴史的価値の高い建築物を全国から移築。室町時代から安土桃山時代の寺院建築や古民家、茶室などの古い建造物が数多く配置されているこの庭園は、「西の桂離宮、東の三溪園」と言われるほどに評価が高い。また、原が一木一草に至るまで吟味したという園内は、自然そのままのたたずまいであり、人口の景であることを忘れさせる。
 正門入り口を入ると、左方に外苑へと向かう「八つ橋」が見える。初夏には花菖蒲が群生し、心を和ませてくれるスポットだ。さらに苑路を進むと、右手に見事な蓮池と睡蓮池が広がり、左手の「大池」には山頂の三重塔が姿を映す。そして、さざ波立つ水面に揺れる一艘の小舟…。全ての要素が景と調和して、ゆったりとした雰囲気を醸し出している。
 左に折れ、さらに外苑の奥へと進むと、400本の梅の木からなる梅林が続く。春には三重塔を背景に咲き誇り、非常に美しい眺めである。
 さらに山道を登ると、山頂の塔の前にたどり着く。先ほどから何度も現れた三溪園のシンボル「三重塔」で、室町時代に京都で建築されたものを大正時代に移築したという。ここから、根岸湾内を一望できる松風閣へと続くが、大明竹でつくられたトンネルが趣深い。
 次に、内苑へと向かう。まっすぐに延びた石畳の正面には、三溪園の代名詞とも言うべき「臨春閣」が池を前にして佇んでいる。池には石組みがほとんどなく、優美な曲線の水際と州浜の線が、一層柔らかさを作り出し、建築の直線と見事な対比を見せている。
 外苑の大らかさ、開かれた景の趣に対し、あちこちにきめ細かな配慮を伺えるのが内苑の特徴。音は聞こえるが姿を見せない滝、水と一体になった大きな飛び石、50メートルにも及ぶモミジの渓流…。各所に意匠が凝らされているが、決してわざとらしさや奇抜さはなく、あくまでも自然の姿なのである。

 

富山城址公園ならではの独自性を活かそう

 今回は簡単にではあるが、日本を代表する2つの名園の成り立ちや魅力について探ってみた。これらは、長い年月をかけて独特の味わいを持つ庭園へと醸成され、訪れる人々を魅了している。

 

▼平成元(1989)年に完成した、富山城址公園・松川べりの潤いスポット「親水のにわ」。

 

弊誌では、約30年前から富山城址公園のあり方について問題提起をし、座談会で各界の方々の意見を伺ってきた。そして、平成3(1991)年には、「富山城址公園整備懇話会」を発足。富山市も再整備に着手することとなり、中心部のオアシスとして、今なお最もふさわしい公園のあり方が模索されている。
 昭和62(1987)年、「富山城址公園を魅力ある憩いの場に!」とのテーマで行った座談会では、現状を踏まえ、次のような意見が出された。(役職は座談会当時のもの)
 「現在はあまりにも色々な機能が内在している。これを単純に整備して、一番好まれる静かな日本的な庭園、親水公園的な性格を持たせたものに改良してはどうか」
——久郷正基氏
(久郷一樹園社長)
 「水と緑は、都市機能の重要な位置を占めており、街の公園には〝深い緑と豊かな水〟のイメージがある。しかし、今の城址公園はあまりにも広場的感覚で、広く明るすぎると思う。人間は身を隠す、どこかに身を寄せられるような場所でホッとするわけですから、もっと起伏のある森をつくる必要があるのではないか」
——長谷川総一郎氏
(富山大学教育学部教授)

 

▼富山城址公園に立つ木々。木陰が夏の暑さを和らげてくれる。

 

平成27(2015)年、富山城址公園の北東部に日本庭園が完成。日本庭園としては小規模だが、平成元(1989)年に松川べりに完成した「親水のにわ」とともに、緑と水を感じることのできるゾーンとなっている。
 今後、さらにより良いものにと再整備が計画されている富山城址公園。その歴史と自然を最大限に活かした、令和の時代の取り組みが期待される。 

 


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