小牧ダム(砺波市庄川町) 巨大なダムと雄大な湖
小牧ダムの建設は、氷見市出身の実業家、浅野総一郎の電源開発計画により始まった。大正8年に庄川水系の水利権を取得、庄川水力電気㈱を設立し、建設に着手。建設地が幾度も変更されたり、木材流送業者の反対運動があり、木材運搬用施設や魚道の設置が必要となるなど設計変更が相次ぎ、建設は容易に進まなかった。さらに大正12年の関東大震災の影響もあり資金不足で経営難に。大正14年に日本電力(関西電力の前身)の子会社となり建設が本格化。この時、事務方の責任者として日本電力から庄川水力電気に出向してきたのが南佐民(のちの綿貫佐民=綿貫民輔氏の実父)で、ダム建設に大きな力を発揮した。
昭和5年10月、小牧ダムは完成し発電を開始したが、流木業者の反対運動は激化し流血の騒ぎとなり「庄川流木争議」として知られる。昭和8年8月、内務省和解案を電力側、流木業者が受け入れ、騒動は終結。完成した小牧ダムは、高さ79・2mの重力式コンクリートダム、最大出力7万2000kWで、当時東洋一といわれた。
平成14年には、河川用ダムとしては初めて登録有形文化財に指定された。
(庄川遊覧船駅舎内の案内板より)