牛ヶ首神社(富山市)

牛ヶ首用水工事の守り神として創建

 

 今年(2011年)3月26日に、富山市の環状道路・草島西線の田尻―山岸間が開通したが、これにより、これまでは場所がわかりにくかった「牛ヶ首神社」は大きな通りに向かい合うことになった。
 「牛ヶ首神社」は、その名の通り、「牛ヶ首用水」とゆかりのある神社だ。羽根ピースフル公園の北端にある案内板「牛ヶ首用水 古江(こうえ)取水の地」の説明や「牛ヶ首用水文書目録」(富山市郷土博物館)などをもとに牛ヶ首用水の歴史を振り返ってみる。
 牛ヶ首用水は、現在は神通川第三ダムから取水している、富山市、射水市を流れる大規模な用水で、水源からの延長は40kmにも及ぶ。
 江戸時代初期、神通川左岸一帯に新田を開発して生産力を高めるために、射水郡・下村長左衛門、婦負郡・八町村善左衛門、同じく小竹村久右衛門を代表に近村33ヶ村の村役人が加賀藩に用水開削、新田開発を願い出た。加賀藩は慎重に検討を加えて、寛永元年(1624)8月、池内太左衛門を用水奉行に、願人3人を用水掛主附に任じた。婦負、射水、砺波郡から藩の費用で人夫を集める藩直営の事業であった。この時の計画は、山田川に取入れ口を設けるもので、加賀3代藩主・前田利常も力を入れ、寛永2年には鷹狩りを名目に現地を視察している。寛永3年春には、橋、水門、筒木、樋口、筧(かけい)、貫樋などが着工。飛騨から大工の水間甚右衛門らが招かれた。
 この年に、加賀藩は、開削工事の守り神として百塚の久安寺の南に神明社を創建している。〔新江(しんえ)が完成してから富山藩によって新たに神明社が祀られたが、明治42年に合祀され、牛ヶ首神社となった〕
 寛永4年には、計画の一部が変更され、新田の増加により用水量の増加が見込まれたことから、山田川だけの取水から、井田川からも取水することになり、婦負郡高田村地内に取入れ口を設けた。寛永9年に、再び利常が現地で指示を与えたという。この年に、用水の本江がほぼ完成し、利常により「牛ヶ首御(おん)用水」と命名された。
 寛永16年、利常は隠居し、次男・利次は婦負郡と新川郡の一部ほかを分け与えられ、分藩することになった。これにより、富山藩が成立。牛ヶ首用水は、加賀藩と富山藩の両藩に属することになった。富山藩の婦負郡の農民は、新田開発のため新たな用水の開削を必要とし、最初の開削時の願人の一人であった八町村善左衛門を代表に、牛ヶ首用水の分水、新田開発の請願を行った。富山藩は加賀藩と協議を重ね、神通川本流から水を取り入れることで水量を確保することになった。計画は、神通川の亀ヶ淵に取入れ口を儲け、井田川まで新しい水路を掘り、神通川の水を井田川に一旦入れ、その水を牛ヶ首用水に取り入れるもので経費はすべて富山藩が負担した。また、金屋村には古江(※以前からの用水路)と新江(※八町村へ水を送る新用水路)を分水する設備も設けられた。牛ヶ首用水は、明暦元年(1655)に完成した。
 「牛ヶ首」という名前は、八町村善左衛門が、用水最大の難所、八ヶ山切り通しの工事で悩んでいたところ、ある夜枕元に神が立ち、「牛の首を難所に埋めよ」と告げたので、そのとおりに埋め、翌日何食わぬ顔で現場を巡視していたところ、人夫達が牛の首を発見し、善左衛門が、「これは神の助けであり必ず成功する」と人夫達を督励したことにより、難工事をやりとげたという伝承に由来する。


▲牛ヶ首神社の牛の像


▲今年の3月26日に開通した環状道路・草島西線が目の前を通る。


▲牛ヶ首神社の正面から。


▲羽根ピースフル公園北端から見る牛ヶ首用水


▲長岡御廟前を流れる牛ヶ首用水

 


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