富山市の中心商店街(富山市)

旧北陸道沿いにあった商家が発祥

 

 寛永16年(1639年)に加賀藩から富山藩が分藩。その後、万治2年(1659年)の領地替えで富山城が富山藩の正式な居城となり、城下町の整備が進められた。城を囲むように武家屋敷が並び、その周囲を巡るように北陸道が通り、沿線には町屋が並んだ。北陸道と飛騨往来の接点に近い西町辻には高札場が設置され、現在の中央通り周辺には東西の四十物町・袋町・室屋町など商家にちなんだ町名もあり、商家が並んでいたことがわかる。また、東端には勝興寺支坊(通坊)があり、門前町が賑わいをみせていた。
 明治4年(1871年)、廃藩置県により富山城は廃城となり、徐々に解体され、本丸跡には県庁が置かれ、南には大手通りが新設され、繁華街が形成された。ただ、当時、最も賑やかだったのは、中教院前。通坊は、合寺令により一時廃寺となったが、その跡には中教院(神道思想を広める国家機関)が設置され、多くの人々が訪れた。一方、本願寺東・西両別院の誘致がきっかけとなり、広い敷地を確保するため、城址外堀を埋め立てた。別院には各地から参詣者が集まり、それらの客のためのそば屋や弁当屋が開店。そんな中、宿屋を営む高沢藤吉と古着商を営む瀬川良太郎が企画し、明治28年7月に夜店が始まった。これが総曲輪通り商店街の始まりという。その後、大正12年に、中町角に県内初の百貨店・岡部呉服店が、さらに、昭和7年には、今のキラリの場所に百貨店・宮市大丸(現在の大和)がオープンし、発展していった。

■参考/『特別展 富山の商店街 〜近代化のあゆみ〜』(富山市郷土博物館編集、富山市教育委員会発行)


▲中央通り


▲西町


▲総曲輪(そうがわ)通り

 

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