富山歩兵聯隊跡(富山市)

明治41年〜昭和20年まで37年間配置

 

 富山市五福の県営富山野球場のそばに、「富山歩兵聯隊跡」という石碑が立っている。1907年(明治40年)10月30日、金沢の歩兵第7連隊および石川県の歩兵第35連隊内に、富山県東部と岐阜3郡を徴兵区とする歩兵第69連隊が設置され、翌年3月に富山(現富山大学敷地)に配置された名残りである。当時、田刈屋にあった富山駅〈富山駅が現在地に移転したのは、神通川馳越線工事(1901年〜1903年)完成後の1908年11月のこと〉に到着した連隊は、神通川左岸堤防沿いに南下、兵舎に至ったという。 歩兵連隊が配置された頃、現・富山大橋の位置に橋はなかったが〈下流には、1903年に「神通大橋」が架けられていた〉、富山市の中心部とを結ぶ橋が不可欠ということで、1909年、「神通新大橋」(今の「富山大橋」)が架けられた。連隊に至る橋であることから「連隊橋」とも呼ばれた。
 なお、この「富山歩兵聯隊跡」の石碑の右側には、「本土決戦機動兵団歩兵第514聯隊動員編成跡地」の石碑も立つ。これは、昭和20年終戦目前の4月、本土決戦準備のために創設されたもの。昭和20年8月2日未明の富山大空襲の時、焼夷弾の猛火の中、聯隊旗手・山口重信陸軍少尉が師範学校(現・富山市立南部中学校)裏の冷川の中で、無事に軍旗を守ったというエピソードも残る。
 ともに、国家存亡の危機に直面し、終戦・占領・独立・復興を経て平和日本への史実があったことを後世に伝えている。
参考/碑文、富山市郷土博物館 博物館だより 第47号、Wikipedia

 


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