前田正甫公の銅像(富山市) 

売薬を花開かせたお殿様

 富山城址公園に立つ、富山藩二代藩主・前田正甫公の銅像。前田正甫公と言えば、富山の売薬を広めたお殿様として有名だ。「反魂丹伝説」を聞かれた方も多いだろう。『富山のセールスマンシップ』(遠藤和子著、サイマル出版会)という本に詳しく書かれているので見てみよう。
 元禄3(1690)年12月15日(現・1月13日)、正甫公が江戸城大広間で謁見の順を待っていた。すると、中庭を隔てた帝鑑間〔ていかんのま〕(譜代大名の詰所)で陸奥国三春(福島県)当主、秋田信濃守(輝季〔てるすえ〕)が激しい腹痛を訴えた。正甫と輝季は、天和元(1681)年、越後騒動による高田藩改易の際に公役で知り合い、同年齢で、ともに若くして藩主になった(正甫は26歳、輝季は28歳)こともあり、互いに好意を抱き、登城で顔を合わせるたびに親しく言葉を交わし合う仲だった。
 正甫は帝鑑間に駆けつけ、右手で腹部を押さえ、額から脂汗を流しながら苦しむ輝季に、腰の印籠から取り出した丸薬を白湯〔さゆ〕とともに口に含ませた。ほどなく、激痛がおさまった。居合わせた大名たちは、この薬が富山藩では薬種屋の手で造られ、市場に出回っていることを聞くと、口々に頼んだ。
 「ぜひとも、わが藩に売り広めてくださるまいか」
 正甫は翌年(1891)5月、富山城に戻ると、薬種屋・松井屋源右衛門に依頼藩の売薬回商を命じた。
 さて、正甫公はなぜ、そんなによく効く薬を持っていたのか?
 前述の本によると、正甫公は人並み外れて大柄で、領内の水練熟達者と神通川で泳ぎの技を競い合うなど、意気軒昂だったが、33歳頃から身体に変調をきたしたという。そこで、薬で激痛発作を抑えていたが、ある時の発作は容易に治まらなかった。その時、たまたまそばに仕える日比野小兵衛〔ひびのこひょうえ〕が差し出した「延寿返魂丹〔えんじゅはんごんたん〕」を服用したところ、痛みがたちどころに治まった。小兵衛が長崎に出張した折、腹痛で苦しんだ際、親しく交わっていた備前国医師、万代常閑〔まんだいじょうかん〕にもらった延寿返魂丹で治まったことから製剤法を伝授してもらい、常備薬としていた。これを聞いた正甫は、すぐ常閑を招き、御前調合をさせたという。正甫公の持病が「薬都・富山」誕生のきっかけになったとも言える。

参考/案内板、『富山のセールスマンシップ』(遠藤和子著)



▲銅像裏手の階段


▲景雲橋

 

 

 


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