同時期に富山で音楽を学んだ滝廉太郎と福井直秋(上市町出身・武蔵野音楽大学創設者)

 

明治10年代の富山県の音楽教育の誇り

 福井直秋は、明治10年(1877年)10月17日、富山県越中国宮川村(現在の上市町)大字江上村四拾八番地、浄土真宗浄誓寺の住職・福井智祐氏の五男として生まれた。
 ちなみに、滝廉太郎は、明治12年(1879年)8月24日、東京都で生まれているので、福井は、廉太郎の2つ年上ということになる。
 さて、福井が宮川尋常小学校初等科第一学年に入学したのは、満6歳、明治16年(1883年)4月である。福井は、『小学生のころ、柳原つたという先生が教壇にベビー・オルガンをのせ、音符の掛図を示しながら美しい声で「ヒフミヨ」(音階)を熱心に教えてくれた』と朝日新聞(昭和38年4月)に思い出を述べている。
 当時の小学校の音楽教育は、次のようなものだったという。
 明治14年、わが国最初の「小学唱歌集初編」が、音楽取調掛より刊行され、明治16年に第二編、明治17年に第三編が発行された。これらの唱歌集は、明治12年、音楽取調掛を創立した伊沢修二に招聘されたアメリカ・ボストン府学校の音楽監督兼教師であったルーサー・ホワイティング・メーソンが編纂したもので、曲は西洋のものが多く、歌詞は里美義、加部厳夫、稲垣千頴、伊沢修二等が作ったものであった。曲には、『菊(庭の千草)』(アイルランド民謡)、『美しき(我が子や何処)』(スコットランド民謡)、『蛍の光』(スコットランド民謡)、『四季の月』(雅楽曲の編曲)など、今日でも有名な曲も含まれる。福井の思い出にある音符の掛図とはメーソンがボストン時代に作ったNational Music Charts(1872年)を模倣して作りかえたもので、文部省より発行されたものであったという。
 一方、廉太郎は、明治19年(1886年)9月に、富山県尋常師範学校附属小学校1年に転入している。父が明治16年に石川県から分離独立する形で設置された富山県の書記官(副知事相当)として赴任したためである。明治21年(1888年)5月に富山を離れるまでここで学んでいる。
 廉太郎も、福井同様、「小学唱歌集」により、様々な音楽に触れたことだろう。また、廉太郎が富山の師範学校付属小学校に転入した年(明治19年)の11月には、富山県初の音楽会が師範学校講堂で開かれ、附属小児童も参加したという記録が残っている。おそらく廉太郎少年も一緒に歌っていたと思われる。この音楽会の「音楽会規則」によれば、第一に「本会は毎月一回本校及び附属小学校の生徒をして平素授けし所の唱歌等を演奏せしめ益熟達せしむる以て趣旨とし傍らを広く世人に雅正の音楽心を感発せしめんことを要するものなり」とあり、第二に「和漢洋古今各種異同あるを以て参考かつ参聴人の余興に供せんが為漸次演奏す。その種類左のごとし 唱歌 保育唱歌 神楽 催馬楽 雅楽 高麗楽 朗詠 東遊 筑紫琴歌」とあり、かなり密度の濃い音楽教育を受けたことが想像できる。
 こうしたことから、『福井直秋伝』では、「日本音楽史に、不滅の名を残した福井直秋と滝廉太郎が、期せずして、最初の音楽の洗礼を受けたのが、北陸の富山の地であったというのはなにか運命的であり、明治十年代の富山県の音楽教育の誇りといっても、それは決して過言ではないだろう」と書かれている。「初等教育の人に与える影響について、いまさら百万語をならべる要もない。生きた教訓をわれわれはここにも見るのである」とも述べている。
 福井はその後、明治28年(1895年)4月、富山県師範学校に入学。2年生の時に、東京音楽学校を卒業してすぐ富山師範へ赴任してきた安田俊高と出会い、多大な影響を受けた。安田を通して、東京音楽学校という目標がしだいに形づくられていったと考えられる。福井は、閑さえあれば、学校のオルガンに向かい、あるいは歌を歌い、将来の音楽家を夢みていたようだ。
 明治32年(1899年)9月2日、福井が22歳の時、東京音楽学校予科へ入学した。なお、当時、富山師範を卒業したものの進学が「音楽学校とは?」という意外感が働いたとしても不思議ではなかったという。
 一方、廉太郎は、明治27年(1894年)9月、15歳の時に東京音楽学校予科に入学している。
 つまり、福井は、廉太郎の2歳年上であるが、廉太郎に遅れること5年、東京音楽学校に入学したわけである。  
 廉太郎は、明治31年(1898年)、本科を首席で卒業し、すぐに研究科に進んだ。翌32年9月、研究科2年になった時、ピアノ授業嘱託を命ぜられ、授業補助となった。明治32年9月に入学した福井は、2歳年下の廉太郎から多くを学ぶこととなる。
 幼い日、富山の田舎の小学校で、学校こそは違え、同じような唱歌教育を受けた廉太郎と福井直秋。富山の話で盛り上がったと思われる。
 明治33年(1900年)、廉太郎は、ピアノ・作曲研究を目的として、満3カ年のドイツ留学を命じられる(出発は翌34年)。この年、「荒城の月」「花」を含む組曲「四季」「箱根八里」「お正月」など、多数作曲している。つまり、福井が廉太郎から学んでいる時に、廉太郎は「荒城の月」などを作曲していたことになり、深い因縁を感じる。

 

滝廉太郎は、わたしの師であり、畏友であった

 福井は、『滝廉太郎は、わたしの師であり、畏友であった』と後年まで語っていたという。師として、また友人として、音楽について夢を語り合ったと想像される。
 福井は、86歳の生涯を閉じる最後の年に、教え子であった小長久子が上梓した「滝廉太郎新資料集」への序文を書いている。
 『…私は滝先生の後輩であって、東京音楽学校へ入学した明治32年頃は、滝先生は同校の研究科を修了されたばかりであった。当時先生は同校の先生ともつかず、生徒ともつかない存在であった。滝先生が時たま教員室に居られる姿を見ては先生かと思い、生徒控席で生徒専用の引き出しから書物を出し入れしておいでになった生徒服の姿の先生を見ては、生徒かなと思ったりしたものである。生徒の中でも、先生を呼ぶのに「滝ヤーイ」と「ヤーイ」づけにしたものもあったが、先生は誠におとなしく丁寧に「ハイ」と答え、ラケットを持って、テニスコートへ出て行かれたこともしばしばであった。私は翌33年に、先生のピアノの弟子となったが、当時、東京帝国大学の先生であったケーベルという偉い先生が、学校に来られて、特別に幸田延先生や橘糸重先生、神戸絢先生等を教えておられたが、その中に滝先生が習っておられる事を知って、滝先生は若いが偉い先生だと初めて知ったのであった。…先生は美男子であって、貴公子然たるその姿は、誠に立派なものであった。テニスの技術もなかなか上手であったが、その態度は誠に立派なもので、今もはっきりと眼にのこっている。一芸に通じるものは百芸に達するとか、滝先生のテニスの旨さは万人に秀でていた。又、滝先生の写譜の上手であったことも随一であって、全く群を抜いていた。写譜の先生であったことも勿論であった。私の2年になった頃、ドイツへ留学されるということになり、盛んな壮行会をして送ったのであるが、行かれて間もなく御病気という事であり、引続いて亡くなられたと聞かされたが、こんな立派な先生を失ったことは日本の音楽界にとって全く惜しい事である。…先生の「箱根八里」や「荒城の月」それに四季の「花」の作曲をみて、作曲の研究者のように思っている者もあるようだが、そうではない。先生は全くのピアニストであり、ドイツへ留学されたのもそのためである。先生が今日まで生き延びておられたら、さぞかし立派な優れた作曲が数多く世に出たことであろう。二十幾歳の若さで、病気のため逝れたことは惜しみても残念至極である』
 福井は、この序文を書き終えてまもなく生涯を閉じたという。

 

参考文献:『福井直秋伝』 編集・発行/福井直秋伝記刊行会(武蔵野音楽大学内)、『明治期の富山における西洋音楽の受容:文献調査による唱歌教育を中心とした歴史の再構築』(谷口昭弘、森田信一/富山大学人間発達科学部紀要,5(1);101-111、http://hdl.handle.net/10110/3335

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