剣の火事と高岡築城

 高岡城はなぜ作られたかという歴史をご存知だろうか?『神通川と呉羽丘陵』(廣瀬誠著・桂書房)からみてみよう。
 加賀藩2代藩主・前田利長は、藩主の座を異母弟で養子にしていた利常に譲り、慶長10年(1605年)、越中新川郡20余万石を隠居領として、富山城(富山藩ができてからの富山城と区別し、慶長期富山城と呼ばれる)に居住することになった。利長は、その築城にあたり、莫大な財力を投入した。石垣築造・櫓建築・重厚な瓦などにとどまらず、多くの「財宝」を持ち込んだ。金沢から引き連れてきた家臣団の人数は640人に上った。
 ところが、慶長14年(1609年)3月18日、いたち川べりの柄巻屋三郎兵衛(彦三郎)宅から出火し、フェーン現象の中、城下町を焼き尽くす大火事となった。この時、富山城も焼け落ちて、土蔵に避難していた多数の侍女も無惨に焼死した。利長はかろうじて脱出することができた。富山はフェーン現象下、大火を発することがしばしばあり、これを剱岳から吹き下ろす烈風によるものとして「剣の火事」と呼ばれた。
 富山市埋蔵文化財センターの「富山城研究」コーナーによると、家康は利長に対して、早速見舞い状を送った。その内容は、「不慮の火事により居城が悉く焼失した」ことを承知したので、「居城の普請についてはすべて任せるので、気遣いは無用であると将軍秀忠のお達しがある」というもの。
 なお、「吉光」の脇差刀と、肩衝茶入(肩が張り出した形状の小形の抹茶入れ茶壷)の2点だけは火難を逃れたという。利長は、富山城の全焼にたいへんなショックを受け、その心情をつづった手紙を多く残した。
 利長は富山城の再建を断念し、射水郡関野(志貴野)に新しい城(高岡城)を築き、城下町を開き、この地を高岡と名付けた。高岡城の水堀がとても広いのも、火の粉が飛んでこないよう富山城での経験を生かした対策だったと言われる。
 慶長19年(1614年)に利長は死去し、高岡城が隠居城として使われたのはごく短期間であった。
 というわけで、富山城と高岡城は、利長公ゆかりの関係の深い城なのである。

参考/『神通川と呉羽丘陵』(廣瀬誠著・桂書房)、富山市郷土博物館「博物館だより」第三十四号、富山市埋蔵文化財センターホームページ、他

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