富山藩で盆踊り禁止令(盆触れ)が出るきっかけとなった場所

 2014年9月号の「富山の風景」コーナーで円隆寺の「さんさい踊り」を取り上げた時、富山藩では盆踊りが禁止され、「さんさい踊り」は子どもの盆踊りのために唯一許されたとご紹介した。今回は、もう少し深堀りしてみよう。
 『鼬川の記憶』(桂書房)の「いたち川べりの歌声」という章で、廣瀬誠氏が詳しく書いておられる。

 


▲円隆寺

 それによると、承応2(1653)年7月15日のお盆の夜、富山城下町の各所で町民が盆踊りを楽しんでいた。この時、本家・加賀藩の家老・本多安房守(政長)が鷹狩りのため家来をひきつれて富山に宿泊していた。いたち川に程近い真言宗真興寺(俗称エンマハンの寺)の境内も盆踊りで湧きかえっていた。安房守の家来たちがこれを見物していたが、富山藩士・片岡兵(平?)右衛門も家来をつれて見物に来ていた。片岡は250石、異風組の中堅幹部で大砲打ちの名人であったという。

 


▲真興寺

 ふとしたはずみで本多の家来と片岡の家来が喧嘩をはじめ、場内は騒然とした。片岡は刀を抜いて威嚇し、喧嘩を鎮めようとしたが、本多の家来たちは寄ってたかって片岡を乱打し、片岡の両刀をもぎ取ってしまった。大恥をかいた片岡は翌朝、鉄砲を持ち出して本多安房守を討ち取り、恨みを晴らそうとした。これを察知した本多は、夜を徹して金沢へ逃げ帰った。
 この騒ぎを知った藩主・利次は激怒し、片岡を切腹させ、片岡の家来たちも厳罰に処した。本多は金沢でこれを知り、家来5人を殺して富山藩へ陳謝した。しかし、利次の怒りは収まらなかった。本多はさらにその老臣・藤井雅楽を自刃させて深く陳謝し、ようやく事は収まった、という。
 この事件があったため、富山藩は禁令を出して町民の盆踊りを一切禁止した。毎年盆踊りが近づくと、七カ条の禁制が町民に示された。その第一条が「おどり・すまふ(相撲)御停止の事」であった。人々はこれを「盆触れ」と称した。
 なお、富山市埋蔵文化財センターの「富山城研究コーナー」によると、寛文3年(1663)年頃の『万治年間富山旧市街図』(富山県立図書館蔵)では、真興寺は現在地の北約200mの現富山市立中央小学校付近に存在したという。当時は「南新町横丁」という通りがあり、富山の地名の由来とされる「富山寺」のすぐそばだったようだ。

 


▲富山市立中央小学校付近


 その後、真興寺は、明治3年(1870〜1871)年の合寺令(すべての寺院は一宗一カ寺にあらため、ただちに合寺する)で現在地に移転。明治32年(1899)の大火で焼け残ったため、富山市役所の仮庁舎として使われたこともあったという。
 ちなみに、明治32年の大火では、当時の富山市の全戸数約1万4000戸のうち4697戸が全焼。ユウタウン総曲輪の駐車場あたりにあった富山市役所の他、富山県庁(富山城内の旧本丸御殿)、初代県会議事堂、警察署、学校など公共的建物も多く焼失している。

 

■参考文献/『鼬川の記憶』(桂書房)、『災害にみる富山』(富山県公文書館)

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