阿尾城と利家、成政
1583年4月、賤ヶ岳の戦の後、前田利家は能登一国と加賀の石川・河北の二郡を加増され、七尾から金沢に移った。前田氏の所領は長さは長いが、中部は特に狭く、事がおこれば寸断される恐れがあった。利家と佐々成政は共に信長の家臣だったが、信長の死後、秀吉との関係で不仲になった。成政の父祖は尾張の有力城主であったが、秀吉は百姓の子。成政は秀吉を軽蔑し、機を得て秀吉を一蹴しようとした。秀吉はそれに気づき、盟友利家に成政を監視させた。この頃、秀吉と家康が尾張の小牧・長久手で戦った。北陸では前田、佐々がおのおの国境に城砦を築いて警戒しあった。阿尾城では、菊池右衛門入道武勝・十六郎父子がいて、前田氏と対峙した。成政は、加賀・能登つなぎめの重要な末森城を奪って、加能二国の連絡を断ち切ろうと図ったが、利家自ら率いる援軍が来て、成政の軍を撃退。利家の威名はこれで知れ渡り、越後の上杉氏は前田氏と同盟し成政を挟み撃ちにしようとした。利家は、1584年11月、阿尾城主菊池武勝に丁寧な書を送り、味方になることをすすめた。成政はこの窮地を脱するため、この冬、深雪の立山を越え、信濃経由で遠州浜松の家康に会い、提携を請うたが受け入れられなかった。その後、前田氏の越中攻略の手は氷見地方にも伸びた。1585年7月利家から菊池武勝に対し秘かに講話条件が示された。そして、利家は兵を率い、堂々と阿尾城に入城。守山城の神保氏張は驚き、成政に急を知らせた。成政はひとたびは守山まで来たが利家の軍容が盛んであることを見て戦わず、利家は金沢に帰った。その後、諦めきれない神保氏張が氷見町を占領し阿尾城に迫った。城将前田利益(慶次)は城を出て防戦したが、多勢に無勢。敗北寸前というところで、村井長頼の軍が来て、背後をつき、神保勢を退けた。阿尾城の菊池氏が前田氏に服属したことは佐々・前田両氏の争覇戦に決定的影響を与え、これよりのち、佐々氏は凋落の一路をたどることとなる。
■参考文献「氷見市史」