アメリカのベニスを目指し成功したサンアントニオの水辺を参考に挑戦
昨年10月29日に岩手県盛岡市で開催された「シンポジウム川とまちづくり『盛岡の街と北上川』」(主催:北上川「流域圏」フォーラム実行委員会/岩手大学地域防災研究センター)。その中で、弊誌発行人の中村孝一が『富山市における水辺復活への想い』と題し、基調講演しました。
中村 孝一
1944年、富山市生まれ。1977年、「月刊グッドラック」創刊、発行人兼編集長に就任(現在、代表取締役会長)。1987年、富山観光遊覧船(株)を設立し、代表取締役社長に就任。昨年、”水の都とやま”推進協議会を設立、理事長を務める。
富山大空襲の時、母親の背中に背負われ、松川の笹舟に避難
私は太平洋戦争の末期、1944年に富山市丸の内で生まれ、翌年、11カ月の時、B29の空襲にあい、母親に背負われ、松川の笹舟に避難し、奇跡的に助かりました。その後、東洋のスイス、北アルプス・立山連峰の麓、立山町に疎開し、育ちました。立山の清らかな雪解け水が町の中を流れ、家の前にも後ろにも小川が流れていて、泳いだり、釣りをしたり、という子ども時代を過ごしました。
大人になって富山の街に戻ってきて、当時のヘドロに覆われた松川の姿を見て驚きました。水がほとんど流れてなく、どぶ臭で臭くて近寄れないくらい。経済界から、松川にコンクリートでふたをして駐車場にしようという動きが出て、これは大変なことになると思いました。
私は少年時代、ボーイスカウトに所属していました。その当時は、高度経済成長に向かって真っただ中でしたから、心よりは経済優先、物質優先の社会になっていました。〝川はそこに住む人の心を映し出す〟という。そうだ、松川を美しくするには、そこに住む人の心を美しくすることだ、と気づき、そのためには、雑誌が一番有効ではないかと思い、1977年に「グッドラック」を創刊しました。〝心の糧を与えてくれる雑誌〟で、心の豊かな社会にしていこう、そうすれば川もきっと美しくなるという信念で、昨年40周年を迎えました。
大人になって再び松川の笹舟に乗り、東洋のベニスへの夢が膨らむ
グッドラックでは、市民の意見を聞くため、座談会をたびたび開きました。すると、友達が東京から遊びに来ても、中心部で連れて行くところがない、と悔しい思いをしている人が多勢いることがわかったんですね。そういえば、私も、小学校4年生の時、お隣の兼六園へ遠足に行き、園内が自然がいっぱいで、小川が流れ、滝が落ちて、池があって、そこをガイドさんが旗を持って、後ろに観光客をいっぱい引き連れ、誇らしげにガイドしているのを見て、ものすごく悔しい思いをしたのを思い出したんです。市民の皆さんも私と同じ思いなんだ。これは富山にとって最大の課題なんじゃないか、と行政に働きかけました。すると、「私たちも市内に観光名所がなくて、困っているんです。何か考えて下さい」と逆提案され、歴史を調べてみました。すると、昔、神通川が湾曲して流れていて、それを外堀に富山城を築き、城下町として発展してきた、まさに富山は、〝水の都〟であることがわかったんですね。ところが毎年洪水が起き、対策として明治の中頃にバイパスを作ったことで、松川の誕生につながるんですね。
子どもの頃、ベニスの風景画を見て、虜になったことがあります。そこにはゴンドラが、ロマンチックな魅力を漂わせ浮かんでいました。松川にも遊覧船が行きかえば、どんなにロマンチックだろう、そんなことを頭に思い浮かべながら、松川へ散歩に行った時です。ちょうど目の前を、神通川で鮭とか鮎、鱒をとる笹舟に、船頭さんが小さいお子さんを乗せて通ったんです。思わず、「船頭さん、乗せてもらえませんか」、と叫んでいました。船に乗ると、全く別世界。〝水の都とやま〟の歴史がよみがえってきました。これはもしかして、〝東洋のベニス〟を目指す素材が松川にあるのではないか、と。
その後、アメリカのベニスを目指し成功した、サンアントニオという街を知り、サンアントニオの水辺を参考に、〝川の街〟をつくろうと、挑戦しているところです。
“実現することがもちろん目標だが、過程も楽しみたい。リバー劇場、階段式カフェテラスなど、着々と夢が現実になって、市民から喜ばれている