上杉謙信の居城 春日山城(新潟県上越市)
春日山城は、上越市中部にある春日山山頂に築かれ、長尾為景、晴景、上杉謙信(長尾景虎)、上杉景勝の4代の居城となった。別名を鉢ヶ峰城ともいう。「春日山」の名称は、奈良の春日大社から分霊勧請した春日神社に由来する。
この城は、南北朝時代に越後国守護である上杉氏が越後府中の館の詰め城として築城したのが始まりとされる。
1507年(永正4年)、守護代であった長尾為景が上杉定実を擁立して守護上杉房能を追放した。一説には、1506(永正3年)、現在の砺波市で行なわれた一向一揆との「般若野の戦い」において、包囲された為景の父・能景を房能が見捨てたことを恨んでいたためとされる。新守護として定実が越後府中に入ると、長尾為景が春日山城主となった。
1509年(永正6年)、房能の実兄である関東管領・上杉顕定が為景に対して報復の大軍を起こすと、為景は劣勢となって定実とともに佐渡国に逃亡した。翌1510年(永正7年)には佐渡の軍勢を加え反攻に転じ、援軍の高梨政盛の助力もあり顕定を敗死させた。
越後の実権を取り戻すことに成功した為景は、自分の姉妹を定実に娶らせ、更に嫡男・六郎(のちの晴景)を定実の猶子とする約定を交わし、守護上杉家の外戚として越後の国政を牛耳ろうとした。また、越中国や加賀国に転戦して、神保慶宗・椎名慶胤らを滅ぼし、越中国の新川郡守護代を任されるなど勢力を拡大。
1536年(天文5年)、為景は隠居し、子の晴景が家督を譲られて春日山城主となった。父の為景と異なり穏健な政策をとった晴景は、領内の国人との融和を図り、越後における争乱を鎮めることにはある程度成功したが、越後国内の情勢はますます不穏になった。城下の寺院へ入門していた弟の虎千代(後の上杉謙信)が還俗して栃尾城主(新潟県長岡市)となり、反乱を鎮め家中での名声を高めると、家臣の一部の間で謙信の擁立を望むようになり、長尾家は家中分裂の危機を迎える。そこで1548年(天文17年)には、定実の仲介のもとに、謙信に家督を譲って、晴景は隠居する。謙信は、1548年(天文17年)12月に入城した。
さて、慶宗の死後、神保氏は落ちぶれたが、その子・長職が神保家の再興を図り、1543年(天文12年)、神通川を越えて新川郡に進出、富山城を築き、新川郡の守護代・長尾氏の代官である椎名氏の領地に圧迫を加えたため、謙信は越中に攻め入り、神保氏は敗北。しかし、長職氏はその後も、武田信玄と通謀して、敵対したため、1562年(永禄5年)、2度にわたり、謙信は侵攻。長職は能登畠山家の仲裁で和睦し、神通川以東を失ったが、本領の射水・婦負2郡の支配権は認められた。ところが、1568年(永禄11年)、武田信玄の調略を受けた椎名康胤(やすたね)が突如上杉家を離反し、一向一揆と結んで武田方に寝返った。謙信は激怒し、大軍をもって越中に侵攻。1572年(元亀3年)9月、尻垂坂の戦い(富山市西新庄)で大勝。1573年(天正元年)、信玄が亡くなると、越中の一揆や土豪を一気に平定し、大部分を掌握。さらに進んで、加賀のなかばを征服し、能登をも手中におさめた。1578年(天正6年)、謙信は春日山城の厠で倒れ、数日後に亡くなる。後継者を指名していなかった為、上杉景勝と上杉景虎との相続争いが勃発(御館の乱)。結局、景勝が勝ち、上杉家の当主となった。
■参考文献/Wikipedia、「越中から富山へ」(高井進著 山川出版社)、「越中の明治維新」(高井進著 桂新書2)、「明治・大正・昭和の郷土史18 富山県」(高井進編 昌平社)、「富山県の歴史」(坂井誠一著 山川出版社)、「富山県の歴史散歩」(富山県歴史散歩研究会 山川出版社、「とやま近代化ものがたり」(富山近代史研究会編 高井進著 北日本新聞社)、他。