日本一の規模を誇った「越中舟橋」

“舟橋のある所天下に右三ヶ所なり。
其内、越中を第一とすべし。” 「東遊記」

 

  江戸時代後期の医家(臨床医)で、医書の著述にも富んだ橘南谿(たちばな・なんけい)が、30歳から36歳にかけ、断続して4回にわたり、医学修行のために日本全国を巡歴し、実地で見聞したことをもとに『西遊記』『東遊記』他(あわせて『東西遊記』)を編さんした。
 天明5(1785)年、南谿が33歳の時、京都から敦賀、福井、山中温泉、金沢を経て、高岡から富山に入った。この年を富山で送り、翌年春に富山を発っている。
 その時の見聞をもとに、佐々成政のざらざら越、蜃気楼、籠の渡りなどとともに、神通川舟橋についても触れている。ただ、なぜか福井県の九十九橋の項目に出てくるので注意が必要だ。この中で、南谿は足羽川に架かる半分が木造、半分が石造りという珍しい九十九橋について書いた後、突然、「福井の東に舟橋あり」と述べ、「越前にては名高けれども、是は越中の神通川に渡せるものに不及。」と続けている。ちなみに、福井の舟橋は、天正年間に柴田勝家が越前浦々から48艘の舟を集め、刀狩の鉄で作った鎖で繋いで九頭竜川に架けたとされている。
 越中の舟橋について、南谿は、「越中の神通川は富山の城下の町の真中を流る。是又甚だ大河にして、東海道の富士川抔に似たり。水上遠くして然も山深く、北国のことなれば、毎春三四月の頃に到れば雪解の水殊の外に増来たりて、例年他方の洪水のごとし。(中略)かくのごとく毎度洪水あり、其上に急流なれば、常体の橋を懸くる事叶いがたき川なり。されば、舟橋を懸渡すこと也。先ず東西の岸に大なる柱を建てて、その柱より柱へ大なる鎖を二筋引渡し、其鎖に舟を繋ぎ、舟より舟に板を渡せり。其舟の数甚だ多くして百余艘に及べり。川幅の広き事おもいやるべし。其鎖のふとく丈夫なること、誠に目を驚かせり。鎖の真中二所程繋ぎ合わせし所ありて、其所に大なる錠をおろせり。洪水の時切る所なりと云う。両岸の柱のふときこと大仏殿の柱よりも大なり。追追にひかえの柱ありて、丈夫に構えたり。鎖につなぎて舟を浮かめたることゆえに、水かさ増るといえども、其舟次第に浮上がりて危き事なく、橋杭なきゆえ橋の損ずることなし。然れども、誠に格別の大洪水の時は此舟の足にせかれて、両方の町家へ川水溢れのぼるゆえに、やむことなくて此鎖の中程を切ること也。其舟左右に分かれて水落つるゆえ、水かさ減ずると也。然れども、此鎖を切る時は、跡にてまた鎖を継ぐ事莫大の費用あることゆえに、格別の洪水にて町家の溺るる程の時ならでは切る事なし。此舟橋も亦一奇観なり。もろこし黄河などにも、晋の時分、舟橋を懸けられしという事聞及べり。いかなる大河急流なりとも用いらるべき橋也」と、驚きを隠さない。なお、百余艘の舟を繋いだと南谿は言っているが、64艘というのが正確な数である。
 続けて、「又奥州南部の城下にも舟橋あり。是も大なれども越中の船橋に不及。舟橋のある所天下に右三ヶ所なり。其内、越中を第一とすべし。」と述べる。
 南部城下の舟橋は、岩手県盛岡市の北上川に架かっていた橋で、こちらも48艘だったとのこと。
 現在、松川に架かる舟橋からは、当時の雄大さは感じられないが、そんな歴史もあったことをたまには想像してみたいものである。

 


▲「神通川 船橋の図」 松浦守美(1824〜1886) ㈱源 所蔵

「舟橋」の絵は、「東海道五十三次」で知られる浮世絵師、初代歌川広重も「六十余州名所図会(ずえ)」の中で描いています。また、「東海道中膝栗毛」で有名な十返舎一九は「金草蛙(かねのわらじ)」の中で、「めずらしや かかるはや瀬を舟ばしの 自由自在は神通の川」と詠んでいます。

 

 


▲松川にかかる現在の舟橋

 

 

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