神通川廃川地処分案の変遷
松川は、河幅約36〜54mの
運河になっていた可能性も?
12もの処分計画案が存在
県庁、富山市役所、富山電気ビルなどが建つ場所は、かつて神通川が流れていた場所であり、馳越線工事によって、神通川が直線化した後、廃川地となり、富岩運河を掘った時に出た土砂で埋め立てられた、ということは、多くの方がご存知だと思う。
さて、その廃川地の処分案が、12もあったということが、元・富山県土木部長の白井芳樹氏の『都市 富山の礎を築く 河川・橋梁・都市計画にかけた土木技術者の足跡』(技報堂出版)の中で大変詳しく書かれている。白井氏が作成された表を次のページに転載させて頂き、その内容を見ていきたい。
廃川地処分をめぐって官民から様々な計画案が提案されたが、それらは大きく2つのタイプに整理できるという。
第一のタイプは、廃川地のみ、または廃川地を中心とする区域を対象として、廃川地内に運河を設ける案で、これは富山市、民間会社、内務省、富山県土木課など官民様々なところから提案された。第二のタイプは、下流の新設運河(富岩運河)の掘削土砂により廃川地を埋め立てる案で、富山県(都市計画富山地方委員会)から提案されたもの。
なお、都市計画富山地方委員会とは、県知事が会長を務め、都市計画法適用市の市長、市会議員、市吏員、関係各庁の高等官、県会議員、学識経験者からなる委員で構成した。委員のうち、市長以外は、内務大臣の奏請に基づき内閣が任命した。委員会には、事務局として、幹事、技師、書記、技手がおかれた。幹事は内務大臣によって任命され、庶務処理を担当。技師、書記、技手は、内務省の職員として委員会に派遣される形で人事が行われた。このうち、技師が、事実上、都市計画立案の中心技術者(プランナー)であった。委員会は、地方にありながら、地方自治体とは別の独立した国の機関として、都市計画を立案し、調整し、事実上決定する機能を有していた点で、重要だと白井氏は指摘する。
それでは、表を順番に見て行こう。
①廃川地処分の問題が最も早くとりあげられたのは、富山市会による陳情であった。平田東助内務大臣に対して富山市会の橋本孝議長が、神通川の「河身改修廃川地処分断行」を陳情したもので、第一に水運確保のために「廃川となるべき本流を処分して運河を通じ」ること、第二に洪水対策のために「馳越より下流東岩瀬港口に達する[神通川河身の]全体を改修」することを求めている。馳越線の竣工から7年、以前にはあった舟楫(水運)の便を復活させることが緊急の課題となっていたことの反映であると白井氏。
②大正7年10月15日に、富山商業月報は一面で「神通運河問題」をとりあげ、旧川を利用して神通運河を掘削し、残余の川敷を市街地または工場地に充当することを提案し、さらに運河掘削の案として「某技術者の説」および「或る事業家の目論見」を紹介。それは、廃川敷地約30万坪に幅員20間(約36m)・延長2000間の運河を掘削し、かつ残余の廃川敷地を埋め立てるもの。
③大正8年5月19日に、富岩運河㈱が県庁に提出した願書にみられる計画案。富岩運河㈱は、富山と東岩瀬町間に運河を開削することを目的として設立された。計画案の特徴は、まず廃川地に開削する運河の他、第二期計画として神通川本川合流点より東岩瀬河港まで新たに運河を掘削するという点。廃川地に開削する運河は、「七軒町裏より本川合流點(点)まで」で、その規模を幅員30間(約54m)、水深8尺(約4m)としている。
④県土木技師土屋峯吉による計画案。次の⑤の富山市廃川地利用調査委員の規定において紹介されているもの。
⑤大正8年11月17日開会の富山市会において「廃川地利用計画調査委員」を臨時に設置することが決められ、その委員規定が公布された。調査は、県の土屋技師が作成した運河開削設計案を基礎として行うこととされた(結果は不明)。
⑥県土木課が長く暖めてきた案。井上知事の時代から研究調査が繰り返されてできた一個の私案であるが、「相当権威あるものと認められている様だ」という。内容は、「廢川地の延長2000間、敷地約30万坪で、運河の河幅30間(約54m)と假定すれば10万坪を要するから、自餘の土地20万坪を新市街地の建設に利用する事に成る」というもの。
⑦大正14年8月15日の富山日報に、氷見市出身の実業家・浅野総一郎が富山市に対し、廃川地経営について打診してきたことが報じられている。浅野は、京浜工業地帯の埋立造成工事等で知られている。浅野の打診は、埋立て工事は全部請負わせてもらいたい、市に埋立てに要する経費がなければ工事費相当分の土地を分割してもらえればよい、埋立ての大機械を有しているのは浅野の経営する会社だけなので最も安価に埋立てができるというもの。しかし、県では廃川地処分を民間会社に任せる考えはなかったようで、また世論も同様であったため、浅野の経営案は正式にはとりあげられなかったという。
⑧大正15年の報道記事で、大正11年頃、内務省都市計画課技師・細野芳彦氏による計画案があったことがわかった。
⑨富山市は、大正10年5月に、市是調査委員会を設置して都市計画の調査を開始、同12年1月に富山都市計画案を県に提出。具体的なことは不明だが、富山市は大正9年当時、内務省都市計画課長・池田宏に都市計画の調査を依頼していた事実がある。時期を考慮すると、前述の細野氏による計画案に近いものであったのではないかという。
⑩大正15年9月1日に富山県史跡名勝天然記念物調査会が、都市計画富山地方委員会宛てに建議を提出した。趣旨は、駅前から城址を貫き石垣を取り壊す道路案に反対するもの。
⑪大正15年10月25日、富山県知事・白上佑吉は富山市長・牧野平五郎に対して廃川地処分案を示した。県から市に示された案は、富岩運河開削と相まって廃川地を処分する案と、富岩運河開削を切り離して廃川地を処分する案の2案あり、費用や工期の面で有利な前者の案の方で、富山市会内会議や、市会と富山商業会議所の協議で、意見が一致した。富山日報も、前者を支持した。白井氏は、この案は、都市計画富山地方委員会によるもので、技師・赤司貫一が関与した可能性が高いという。
⑫⑪案を実現方策の面において深化させたもの。都市計画において位置づけたもの。
なお、⑪⑫の段階で、松川の幅が現在の幅に決まった理由は不明である。ちなみに、松川は、市街地中心部の排水を下流の神通川に導くことにより同地域の治水対策を兼ねるものでもあった、という。
■参考文献:『都市 富山の礎を築く 河川・橋梁・都市計画にかけた土木技術者の足跡』(白井芳樹著・技報堂出版)