諏訪社(富山市諏訪川原)は富山城西の搦手を守った神通川の水神「大将軍」にちなんだ「大将軍淵」の後身?
『神通川と呉羽丘陵 ふるさとの風土』(廣瀬誠著、桂書房)には、神通川と呉羽丘陵を中心に富山の歴史がわかりやすく書かれている。その中に「神通川と富山城」という項がある。それによると、かつて富山城の西の搦手(裏門)を守った神通川の水神「大将軍」にちなんで「大将軍淵」と言われていた場所に、現在の諏訪社があるという。
廣瀬氏は、〝諏訪大明神は古来「日本第一の大軍神」とあがめられたので、「天下の大将軍、守護の大将軍淵」のほとりに諏訪神を祀ったのであろう〟と述べておられる。
さて、神通川の水神が「大将軍」と呼ばれていたことを初めて知ったが、廣瀬氏によると、戦国時代の『富山之記』に書かれているという。ちなみに、現存する『富山之記』は山田孝雄博士が仙台で発見入手した珍書で、慶長15年(1610年)の写本。写本の外題には「富士山の記」とあるが、「士」は誤入と山田博士は考証した。原本は天文初年(1532〜39)に成立したと博士は推定されたそうだ。佐々成政よりも古い神保氏居城のころの富山城と城下町のありさまを詳細に描いた、富山最古の文献で、「往来物」の姿ではあるが、武士的気迫と庶民的活気をいきいきとみなぎらせた力作であると廣瀬氏。
『富山之記』に次のような文章があるという(原文は漢文)。
西の搦手は神通の大河にして、洪々漫々として深きこと崖際を知らず。逆浪遠く漲って急流矢の如し。船の行来易からず。水面は十余町。
天下に比倫なき精兵強弓たりとも射越すこと能はず
天下の大将軍、此の河の水神と成る。即ち是れ西門の守護神なり。大将軍淵と名づく
「明治30年代からの河川改修(馳越線工事)で神通川の流路は一変し、川もかつての威勢を失い、大将軍淵の所在も不明となったが、現在、諏訪川原に鎮座する諏訪社が大将軍淵の後身でなかろうか。とすれば、大将軍淵が青黒くうずを巻き、「自彊不息」の音を響かせていたのもこの近くであったろう」(廣瀬氏)
なお、「自彊不息」は『易経』の語で、『自分からすすんでつとめ励んで怠らない』の意味。『神通川讃歌』にしばしば使われた言葉だという。
「諏訪社の由緒と造営」という石碑によると、同社は1100年前の第58代光孝天皇の御代に創建され、御祭神は大国主命の御子・武御名方命(タケミナカタノミコト)と玉姫稲荷神。戦前は境内が広く、深い自然の池に多くの亀がすみつき、市民に「亀のお宮さん」といわれ親しまれていたそうで、現在も「亀の碑」や、「亀の池」の看板などが残る。