山田孝雄博士と神通川、立山

 今月号の「本道楽コーナー」(右ページ)は山田孝雄博士の『櫻史』をご紹介したので、山田博士について、神通川や立山との関係にも触れながら、もう少し掘り下げてみてみよう。
 山田氏は、富山中学を2年で中退した後、独学で教員免許を取ったが、その後、富山市総曲輪の自宅から射水郡下村小学校まで9キロの道を歩いて通勤したという。未明に家を出て、冬など新雪の積もった神通大橋をラッセルしながら進んだそうだ。
 なお、精魂こめて書き上げた『日本文法論』を学位論文として提出したが、審査員は「中学中退の学歴か」と見くびり、戸棚の隅に放置し、20数年後そのすぐれた研究であることに驚嘆し、あわてて文学博士の学位を贈ったというエピソードも残る。
 山田博士は、富山町最古の記録『富(士)山之記』の発見者としても知られており、仙台の古書店で発見入手したそう。博士は、「士」は衍字(よけいな誤入字)と考証した。
 博士のお墓は、呉羽山五百羅漢の右手の山陰にある。博士は、「国めぐり山々見れば故郷の越の立山たぐひなきかな」と詠み、立山を讃仰しており、博士の遺志によって、立山と向かい合うこの地に墓を立てたのだそうだ。
 山田博士の父・方雄氏は富山藩の武士で、神通川での釣りがとても好きだったそう。ある時、方雄氏が叔父とつれだって、神通川に舟を出して釣りをした後、舟から岸に移る際に川に落ち、舟も獲物も釣道具も流出してしまった。この時、叔母の着物を借用して3月の寒さにふるえながら帰宅したという。「叔母の着物とあるから、武士が夕闇にまぎれて女装してこっそり帰ったのであろう。気の毒だけれども噴飯ものだ」と、郷土史研究家の廣瀬誠氏は書いておられる。
 またある時は、神通川の腰に及ぶ深さの瀬に踏み入って鮎を釣り、よく釣れるのが面白くて、毎夕刻(勤務後)、十数日も続けたところ、病気になったと『旧事回顧録』に書いているそう。この回顧録は、失敗談もありのまま記した、越中随筆文学の名作だそうだ。

※参考/『神通川と呉羽丘陵』(廣瀬誠著、桂書房)

 

 

 

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