神通川治水を完成させた第三次改修事業
かつて、何度も大洪水が発生した神通川。近年、ゲリラ豪雨が増え、今後のことはわからないものの、現在では余程の大雨が降らない限り、神通川が溢れる心配はなくなった。今回は、明治時代の治水事業について振り返ってみたい。
神通川は、その源を岐阜県高山市の川上岳に発し、岐阜県内では宮川と呼ばれ、県境で高原川を合わせ、富山県に入り神通川と名称を改め日本海に注ぐ、流路延長120㎞、流域面積2720㎢の一級河川。
明治の治水事業が始まる前は、富山城の北側で大きく蛇行していたため、毎年のように洪水が発生し、浸水家屋が数千戸を超えることも少なくなかった。
このため、富山県は、明治30(1897)年から神通川の第一次改修事業を実施した。上流は富山市藤井村から、下流は上新川郡奥田村大字廣田中島村まで2520間(約4.6㎞)の区間において川底を掘り下げ、川幅も拡げた。掘削した土砂を利用して新しい堤防を築くとともに、掘削した箇所には護岸工事も施した。そして、明治32年3月に竣工した。
ところが、竣工した年の夏に、富山市の大半が浸水する被害が発生。そこで、県は明治34(1901)年に第二次改修工事に着手した。これが有名な馳越線工事である。富山城址の北で、屈曲蛇行する区間を直線的に流れるようにするための人工水路を計画。予定地のほぼ中央に細い水路(幅2m、深さ1.5m)を掘り、洪水時に越流する洪水の力で次第に幅を拡げていく方法をとった。
しかし、明治43(1910)年と大正3(1914)年に大きな洪水災害に見舞われてしまう。そのため、神通川は国が改修を急ぐべき20河川の一つに選ばれ、大正7(1918)年5月、内務省直轄による第三次改修事業が行なわれることになった。これは、先行する二度の改修事業で解消できなかった洪水防御を達成するために行なわれた本格的改修事業で、昭和13(1938)年に竣工した。こうして、明治以来の神通川治水が完成し、その後、洪水被害が発生しなくなった。