市民総参加で富山で育った滝廉太郎を“文化の街・富山”のシンボルに!

・ 「荒城の月」誕生から120周年 ・
– 「グッドラックとやま」 平成元(1989)年3月号座談会より –

 昭和54(1979)年、富山県九州人会によって、滝廉太郎生誕100周年を記念し、ゆかりの地である富山市丸の内に少年像が建立された。平成3(1991)年には、富山市民によるブロンズ像の建立をとの弊誌の呼びかけで、「滝廉太郎ブロンズ像建立委員会」が設立され、ブロンズ像が完成した。「市民総参加で、富山で育った滝廉太郎を“文化の街・富山”のシンボルに!」と熱く語り合った、当時の座談会を振り返ってみたい。

 


◇座談会出席者
[役職は平成元(1989)年の座談会開催当時]

富山市観光課 主幹 小俣 浩さん
日本海ガス㈱ 社長 新田嗣治朗さん
郷土史家 八尾正治さん
県立八尾高等学校 教頭 神島達郎さん
市民大学「かいむ」の会 松井宏子さん
・司会/中村孝一

 

史実が物語る「荒城の月」作曲の背景

中村 文化に目を向けるゆとりがなく、その土壌が育ち切らないまま今日に至ってしまっている富山に、文化度が高められるシンボル的なものを設定したらと思い、いろいろ調べるうちに浮かんで来たのが滝廉太郎です。彼は父親の赴任で、富山に住んでいたという歴史的事実がありますし、音楽の方面では天才と伝えられるほどの才能を持ち、短い生涯の間に数々の名曲を残しています。
 中でも『荒城の月』は幼い頃、富山城内で過ごしたことが彼の楽想に大きな影響を与えており、知名度も高く、富山の文化的シンボルとしては最適だと思うのですが。

新田 滝廉太郎は、小学校1〜3年の頃に富山城内で育ったわけですが、戦災で丸焼けになったことで、彼が住んでいた幼い頃を想い出す街並みも失われ、伝統的な部分の損失はかなりありますね。

八尾 実は20年程前に、ある建設会社の広報にと依頼されたものの中に、滝廉太郎のことを書いたことがあります。同じ彼の作品の中で『お正月』や『雪やこんこん』などは、彼の住んだ土地の中で富山以外には求められないイメージであるはずです。そのことを考え合わせても、富山での生活の印象はよほど強かったのでしょう。

中村 今までの通説によると、『荒城の月』の曲のモデルは大分県竹田市にある岡城ではといわれてきたのですが、実際史実を調べていくと、富山城の可能性もあるな、と。先日、その説をマスコミに発表したところ、大きなニュースになり、新聞やラジオを通じて全国に報道されたんですよ。

新田 声を大きくした方が勝ちだね。(笑)

八尾 それは言えますね。私たち郷土史家としては事実を最も尊重しますが、大衆に受け入れられやすい方がいいですよね。

神島 ところで明治時代、滝廉太郎の住んでいた頃の富山城というのはどんな様子だったんでしょうか。彼のお父さんは富山での任務の後、退職なさって一度東京へ戻り、その後郷里の大分へ帰っていますが、何か退職の理由はあったんでしょうか?

八尾 いろいろな資料を元に推測しますと、当時の国重知事(富山県令)との間に意見の食い違いがあったようです。滝家というのは、日出藩では相当な重臣(家老職)で、その生真面目な人柄などが大久保利通に好まれ、とんとん拍子で出世していったらしいのです。

神島 その前後、副知事格は1人なのに、滝さんが来ておられた時だけ2人になっているんです。そのことから、もしかしたらと思っていたんですけどね。滝少年はとても頭の良い、感性の鋭い方でしたから、そんな父親の挫折したような気持ちを感じていたとすれば、『荒城の月』の楽想に何か影響を与えたのでは、と思います。

八尾 私は「荒城」に近い佇まいだったと思います。廃藩置県になり、城は無用の長物となり、二束三文で売り出したりした時代です。おそらく、廉太郎も荒れ果てた城郭の中での生活であったろうと考えられます。外堀も埋められておらず、城内に官舎や県庁などもあり、広大なものでした。当然、今の松川の場所を流れていたのは、広大な神通川でしたし…。

中村 ところで、丸の内の「堺捨」さん前の少年像ですが、発起人が全て在富の九州人会の方々で、市民にしてみれば、ある日突然、銅像ができたという感じでしたね。

八尾 当時、市民への呼びかけがなかったんじゃないでしょうか。

中村 郷土の偉人のゆかりの地に銅像を建てようという九州人会の活動だったようで、記録によれば、当時の改井市長が来賓として除幕式に参列しています。本来なら、市長自らが発起人であるのが普通ですよね。

八尾 大分市長代理も来ているんですよね。主体はやはり九州の人だったようです。

新田 改井市長の時にできたということは、今初めて聞きました。私も一応、文化人と言われているんですがね(笑)

 

経済界からの文化施設への投資を

八尾 富山は経済的自力があると、かねてから認識していますが、広島銀行の作った「ひろしま美術館」などいくつかの文化施設を見ても、経済が文化に寄与する部分があると思ったんです。経済界から、一般市民の利用するような文化施設への投資もあっていいのではないでしょうか。

新田 耳の痛い話ですね。

中村 経済人と言われる人々は、お金を持っていても文化に理解がないとなかなか応援しませんからね。そういう点、新田社長はロータリークラブの富山大会を記念して、松川べりに「ガス燈」を寄贈されたりと、富山の歴史、文化に理解を示していただいていますね。

八尾 そうですよね。さらに、経済界への文化面への援助の働きかけをお願いしたいものです。

新田 ええ、私も文化面を大切にするよう、絶えず心がけているんですがね。私もいろんな経済団体に関係しているんですが、その集まりでは文化的な話というのはあまり出ないですね。

八尾 会社経営もいろいろ事情がおありでしょうが、何か方法はないものかと思いましてね。

新田 これから経済界で、そういう雰囲気をどんどん盛り上げていく努力をしなければならないですね。会社の存続を優先させるのは当たり前ですけど、昔の人が偉かったのは、そんなにいい生活をしていなくても、風流を楽しむゆとりを大事にしていましたよね。今は、あくせくしすぎですね。立ち止まって、ゆっくり振り返る精神的余裕がないように思います。

 

 

詞と曲に共通する悲哀のイメージ

中村 さて、滝廉太郎は富山を離れて一旦東京へ戻った後、竹田へ行き、岡城を見て、詞を書いているんです。そのタイトルが『古城』なんです。私も一昨年に見て来たのですが、「荒城」というイメージではなかったですね。市からいただいたパンフレットにも、戦国時代、島津の大軍3万に3回も攻められたが、一度も破られることがなかった〝難攻不落の城〟と誇らしく記されていました。
 土井晩翠が『荒城の月』を作詞する際に、最も気を遣ったと言われる、「戦いに敗れし者の悲哀」がこもる「荒城」のイメージは、残念ながら岡城からは感じられなかったですね。

神島 確かに岡城をモデルに作った詞『古城』にも、歴史の古さは感じられますが、土井晩翠が鶴ヶ城をモデルにした『荒城の月』にある、人間の浮き沈みなどの〝栄枯盛衰〟は感じられないですね。

八尾 歴史の魅力は、一種の〝栄枯盛衰〟感です。川端康成先生が日本文化の根源は春夏秋冬の移ろいであると言われたように、歴史もやはり移ろいなんですよね。
 歴史上の人物の人気投票をすると1位が源義経、2位が赤穂浪士、3位が真田幸村で、共通しているのは滅びていく運命だということです。『荒城の月』もやはり、滅びの美学なんですよね。

 

▼戦乱の世から明治までの、栄枯盛衰の歴史を秘めた富山城。明治初期の廃城令によって本格的に解体されることが決まり、滝廉太郎が城内の小学校に通っていた当時は、堀の埋め立てなど大規模な城址の市街地化が進められていた。

中村 おっしゃる通りですね。岡城も富山城も古い城なんですけど、重要なことは歴史に違いがあるんですね。岡城はとにかく負けたことのない城で、〝悲哀〟がこもっていませんしね。それに比べ、富山城は上杉謙信に破れ、早百合姫は佐々成政に首をはねられ、成政は秀吉に追われて切腹。こうした富山城の悲哀に満ちた歴史を、廉太郎少年は町の人や親から聞かされて育っているんですね。
 また、土井晩翠が詞のモデルにしたといわれる鶴ヶ城も、似たような歴史を持つんです。晩翠は幼い頃から〝落城〟の様子を祖父母から聞いて育ち、作詞を依頼された音楽学校の提示した『古城の月』を『荒城の月』に訂正させたぐらいの思いで書いた詞ですからね。名曲として後世に伝えられるためには、詞と曲にそういった共通性が必ずあるものだと思います。

新田 ぜひ、「滝廉太郎」を〝文化の街・富山〟の「シンボル」にしましょうよ。過去にこういう事実があったんですから、それを記念して銅像を造ればいいと思います。そうとなったら、現実にどういう形で建てるかですね。

 

富山を愛する心で滝廉太郎の顕彰を

八尾 文化だけでなく、観光という面から考えても、滝廉太郎の方が佐々成政より数段上だと考えます。知名度が低いと、観光客にとって魅力がないですからね。

小俣 文化は長い積み重ねの中で培われるものであり、市民の理解と連帯がなければならないですよね。何か建てたからそれが観光だというのではなく、あくまでも市民の〝富山を愛する〟気持ちが根底になければならないでしょう。

中村 旅行代理店へ問い合わせたところ、城址公園が観光コースに入ってないんです。観光客にとって城は魅力の一つですし、富山の歴史や文化的なものがすぐにわかるように、松川沿いに滝廉太郎の像が建つと魅力がでますよね。

小俣 観光課の立場ですと、人に誇れるものは大いにPRするのが大切だと思います。滝廉太郎が富山市と竹田市に住んでいた事実をもとに、相互がゆかりの地としてつながるといいですね。

神島 富山に確実に住んでいたという痕跡を残すためにもね。

中村 先頃読んだ音楽の本に、『荒城の月』は今や、日本人の魂となり、肉体となっているとありました。『君が代』は、都会のほうへ行くと先生によっては教えないこともあるらしいですが、「荒城の月」は5年生か6年生で必ず教えますしね。「日本の郷愁」とタイトルについている曲集などには、必ず『荒城の月』が入っていて嬉しく思います。

 

▼平成元(1989)年の座談会の様子。

 

新田 それに「荒城」という言葉は、この曲によって広まったんですね。それ以前は、日本語の単語に「荒城」はないですよ。また、銅像を建てるにあたっては、作曲したのは成人してからですから、成人像がいいと思いますね。

八尾 設置場所は、その人にふさわしい場所がいいですね。

神島 なるべく見やすいところで、多くの人の目に触れるよう配慮してほしいですね。

新田 場所の問題は後でも、そういうものを造ろうということをハッキリさせておくべきですよ。市民に啓蒙し、市民が参加して造ることに意義があるんですから。

八尾 滝廉太郎が富山へ来ていた事実を知らない人が多いのが現実ですから、市としても大いにPRしていくべきだと思っています。富山の人がまず関心を示して、名を連ねていってほしいですね。

新田 まずPRすることですね。知らない人がいては、何もならないですからね。そこはやはりタウン誌の使命として、新聞とタイアップしたりして効果的に宣伝してくださいよ。私も大いにPRしますけどね。

松井 経済界のバックアップはやはり強力ですから、ぜひ必要だと思います。富山を『荒城の月』のふるさととして育てていくためにも、市民総参加で「滝廉太郎像」が建立されると素晴らしいですね。

中村 とても有意義なご意見をありがとうございました。私どももタウン誌としての使命を、精一杯果たしていきたいと思います。


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