富山で少年時代を過ごした滝廉太郎を、“文化の街・富山”のシンボルに!

2022年新春座談会

◇座談会出席者 (五十音順)

浅岡節夫さん
滝廉太郎研究会会長
富山県オペラ協会名誉会長

川田文人さん
滝廉太郎研究会副会長
元北陸経済研究所理事長

木村正人さん
富山市丸の内2丁目町内会長

黒田素子さん
ピアニスト
富山県立呉羽高校非常勤講師

小池正俊さん
読者代表

花柳松香さん
花柳流専門部教授
富山女性連合会会長

・司会/中村孝一
(グッドラックとやま発行人)

 

滝廉太郎は富山市民の誇り

中村 グッドラックの1989(平成元)年2月号で「『荒城の月』のモデルは富山城!」との新説を発表させていただき、早いもので30数年になりました。1991(平成3)年には「滝廉太郎ブロンズ像建立委員会」を立ち上げ、翌年には「第1回滝廉太郎祭」を開催させていただくなどの啓蒙活動を始め、現在に至っていますが、県民市民には今なお浸透していないように思います。

浅岡 滝廉太郎は少年時代の約2年間を富山で過ごし、富山城内にあった小学校へ通っていたわけですからね。『荒城の月』作曲にあたって、富山城のイメージが浮かんだのは間違いないと思います。

花柳 第1回の「滝廉太郎祭」から何度も出演させていただきましたが、富山市と滝廉太郎の関わりについてはまだ認知度が低いと思いますね。富山市内をもっと盛り上げる必要があると思います。

木村 私は、滝廉太郎が富山に住んでいたことを、最近まで全く知らなかったんです。中村さんからこの町内に住まいがあったことを聞き、大変驚きました。市民の方々もまだまだ知られない方が多いのではないかと思います。

川田 滝廉太郎が住んでいたのは千石町ではなかったですか?

中村 お父さんの吉弘の履歴書には、「千石町」となっていますが、その後、小学校に近い総曲輪の官舎に移られ、それが今の青葉幼稚園の辺りなんです。富山城の外堀を埋め立てて、総曲輪通りが誕生し、今の丸の内となったんです。

木村 私が小さい頃は、まだ総曲輪でしたが、丸の内に町名が変更されたんです。

中村 これまで色々な媒体で紹介されていますが、肝心の富山市の方が知らないんです。例えばNHK「きょうの健康」の2002年12月号では〈名曲を訪ねて〉のコーナーで、富山市が滝廉太郎作曲の『お正月』の由来の町として取り上げられています。また、北陸新幹線車内で配布された「西Navi北陸」2018年11月号の特集記事「文人・偉人たちの北陸 」ページでは、滝廉太郎と松川茶屋内にある「滝廉太郎記念館」が紹介されているんですよ。


▲NHK『きょうの健康』’02年12月号で紹介された「滝廉太郎と富山」。

 

富山との関わりをさらに掘り下げる

川田 滝廉太郎のいとこの滝大吉は、父・吉弘の本家のお兄さんの息子です。大きくなるまで吉弘が面倒を見た人なのですが、鹿鳴館を設計したジョサイア・コンドルの助手になるなど建築家として名をなした人です。
 廉太郎が音楽の道へ進むのを、吉弘は反対していましたが、大吉が間に入って説得したという経緯があります。その大吉が富山県の県会議事堂や上新川郡の議事堂の建築設計に関わっており、富山との関わりが深いんです。

小池 富山には語り部という方たちがいて、あちこちへ講演に行きます。富山の歴史について、そういう方たちにも話をして、意識的に滝廉太郎を取り上げていただくということも必要ですね。

川田 富山らしさを出すために、山田耕筰編曲の「荒城の月」ではなくて、滝廉太郎のオリジナルな曲(原曲)を使うのも面白いですね。

浅岡 普遍的に歌われているのは山田耕筰編曲ですが、鮫島由美子さんなどがオリジナルの方を歌っていますね。

黒田 違うところが、1カ所だけあるんですよね。

花柳 滝廉太郎をイメージした曲を作ろうと呼びかけて、コンクールで曲を募集して発表の場を作ったら意外と面白いかもしれませんね。仕掛け作りが大事なのではと思います。

中村 30数年、市に働きかけてきていたのですが、ようやく教育委員会の方で小学生の副読本に紹介してくださることになりました。

浅岡 中村さんが何十年もずっと滝廉太郎と富山の関わりについて言ってこられたのは、すばらしいと思います。けれど、私の体験から言っても、本当にわかるのは一部の人なんですよね。

中村 滝廉太郎はドイツ・ライプチヒにあるメンデルスゾーンが設立した大学へ留学しましたが、冬が寒く、すぐ病気になられたんです。回復の見込みがないと、翌年には帰国されたわけですが、短い期間しかいなかったのに、記念碑が建てられているんですよ。

川田 2003年6月29日の命日が除幕式ですね。

中村 このライプチヒでは、「モーツァルト通り」など、通りにゆかりのある有名な音楽家の名前を付けています。富山にも「滝廉太郎通り」があってもいいですよね。

浅岡 そりゃいいですね。あと、この「滝廉太郎記念館」にある滝廉太郎のブロンズ像を、松川べりの「親水のにわ」の真ん中にでも置かないとだめだね。

 

富山での体験が作曲活動に影響

小池 滝廉太郎は身体が少し弱かったという話もありますが、幼い頃から相当感受性があったんだろうと思いますよ。小学校1〜3年の時は一番感受性があって、この富山で過ごされた期間というのはしっかり頭に入っているんじゃないかと思うんですよ。

中村 そうでしょうね。それは絶対間違いないと思います。

黒田 特に雪が降るのは、滝廉太郎さんが行かれた中では富山だけですもんね。

中村 『お正月』『雪やこんこん』は、まさに富山での体験が作曲につながっていると思います。

浅岡 私が東京から疎開してきたのは中学2年の時です。当時はまだ戦時下ですから、灯火管制され、真っ暗なんですよ。富山に着いたのが夜中か明け方でしたが、西田地方の父の妹の家まで、父に連れられて歩いて行く途中に、富山城址を見たんですよ。その時、城址の石垣の上に月が出ていて、それを呆然と見ていました。今でも、その時のことが非常に強く思い出されますから、滝廉太郎にとってもその光景は非常に印象深かったと思います。

小池 私も戦後、父に連れられて富山城址へ来たことがありましたが、当時は石垣だけで、まさに荒城という感じでした。

中村 1954(昭和29)年に、富山市の戦災復興のシンボルとして天守閣を造ったんですね。

川田 産業大博覧会の時ですね。

小池 当時、私はちょうど滝廉太郎が富山におられた時と同じ位の年齢でしたが、その光景を良く覚えていますよ。

中村 以前、全国紙にも「『荒城の月』のモデルは富山城!」との説が掲載された折、わざわざ神戸から富山城を見に来たという方がおられて、石垣の前で『荒城の月』を歌っておられましたね。

 

様々な場を活かし顕彰活動を

花柳 例えば今の時代に合わせ、日を決めてオンライン形式で、自分たちの稽古場でそれぞれ滝廉太郎の曲をやるという「滝廉太郎祭」があっても面白いですね。それをいつか集約できるようなチャンスを作って、盛り上げていくということも考えられますし…。
 また、富山の場合、「おわら」は中高年で、若い人がエネルギーを発散できる場として「よさこい」が出てきたわけなんですが、若い人たちを巻き込むことを、滝廉太郎に集約させるということも考えたらいいのではないでしょうか。

黒田 滝廉太郎さんの曲というと、『荒城の月』『花』、『お正月』などは知っておりましたが、グッドラックさんの主催された音楽祭に出演させていただいて初めて、美しい2曲しかないピアノ曲を知ることができましたし、かわいい童謡の曲がたくさんあることも知りました。音楽を仕事としている私ですらこういう状態ですので、やはり知らない方は多いと思います。小学校、中学校の先生には少しずつ富山と滝廉太郎の関わりについてお話しし、『荒城の月』を歌う生徒がいたら、こういう背景があるんだよと、ぜひ伝えていきたいと思います。また、花柳先生がおっしゃったようにいろんな方とコラボして、滝廉太郎を盛り上げていきたいですね。

木村 私も町内会の皆さんにお伝えすることで、地元で盛り上げていきたいと思います。

 

自主的な活動が前進の原動力

川田 富山には文化がないと言われますが、富山はものづくりで来たという経緯がありますので、観光に意識がいってなかったんでしょうね。観光というのは自分の街のいい所を見出すことであり、人が住んでいれば必ず文化はあるはずですから、それを掘り起こしてどう伝えていくかということを意識的にやることが一番大切です。これはシビックプライドにもつながりますし、滝廉太郎も我々にとって一つの大きな財産です。
 滝廉太郎はもちろん、いろいろなことを掘り起こして、それを伝えていくという努力が大事なのではないかなと思います。住んでいる私たち自身がそういう取組みを自主的にやっていかないと、前に進まないでしょうし、私たちの決意にかかっていると言えます。

中村 せっかくの宝物も磨いていかなければ、見えなくなってしまいますからね。今後も皆様とともに、顕彰活動を進めていけたらと思います。本日は、貴重なご意見を誠にありがとうございました。

 


▲平成5(1993)年5月、滝廉太郎の没後90年を記念し、彼の通った小学校跡の近くに建てられたマンションの一室にオープンした「滝廉太郎記念館」(現在は松川茶屋内に移転)。

 

― 滝廉太郎 年表 ―

1879(明治12)年 8月24日 東京都芝区南佐久間町に生まれる。
1882(同15)年 11月  父が神奈川県書記官となり、横浜に転居。
1886(同19)年 8月 父が富山県書記官となり、富山市に転居。総曲輪(現在の丸の内)の官舎に居住。9月 富山県尋常師範学校附属小学校1年に転入。(7歳)
1887(同20)年 2月 父が富山県知事代理となる。
1888(同21)年 4月 父が非職を命じられる。5月 傷心のうちに富山を離れ、東京へ転居。東京市麹町小学校3年に転入。
1889(同22)年 3月 父が大分県大分郡長に任じられる。(廉太郎は、祖母、病弱の姉らと東京に残る)
1890(同23)年 5月 廉太郎も、大分に転居。大分県師範学校附属小学校高等科1年に転入。
1891(同24)年 11月 父が大分県直入郡長に転じる。12月 一家、豊後竹田へ転居。
1894(同27)年 5月 上京し、音楽学校受験準備のため芝区愛宕町の「芝唱歌会」に入会。9月 東京音楽学校(予科)へ入学。
1895(同28)年 9月 同校本科へ進学。
1898(同31)年 7月 本科を首席で卒業。9月に研究科入学。
1899(同32)年 9月 音楽学校嘱託となる。(20歳)
1900(同33)年 6月 ピアノ・作曲研究を目的とし、満3カ年のドイツ留学を命じられる。この年、「荒城の月」「花」を含む組曲 「四 季」 「箱根八里」 「お正月」など、多数作曲。
1901(同34)年 4月 ドイツ留学へ出発。10月、ライプチヒ王立音学院入学。
1902(同35)年 10月 病気のため、ドイツより横浜港に帰省。大分市の父母のもとで療養。
1903(同36)年 6月29日 病死。 (23歳10カ月)

※『総曲輪懐懐古館』(巧玄選書)参照


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