・ グッドラックとやま 2024街づくりキャンペーン座談会・ローマ「モーツァルト通り」に倣い、富山に「滝廉太郎通り」を!

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ローマ「モーツァルト通り」に倣い、富山に「滝廉太郎通り」を!

富山城址公園内の松川茶屋に併設されている「滝廉太郎記念館」。ここから西へ徒歩5分の場所に滝廉太郎の少年像、さらに南へ5分の場所に住居跡の案内看板が設置されている。

少年時代の約2年間を富山で過ごした作曲家・滝廉太郎が誕生し、今年は145年目を迎える。ゆかりの地として、県民市民に顕彰活動を進めるには、どのような仕掛けがさらに必要だろうか。
歴史を大切にするヨーロッパでは、記念館や記念碑の設置、道路に名前をつけるなど、偉人を偲ぶ活動が盛んに行われている。富山も「“水”と“歴史”と“文化”の街」のキャッチフレーズを具現化したいものである。

 

◇座談会出席者 
 川田文人 さん
  滝廉太郎研究会副会長
  元北陸経済研究所理事長

 木村正人 さん
  富山市丸の内2丁目町内会長

 小池正俊 さん
  読者代表

 池田笑子 さん
  さくらコーラス代表

 岡田京子 さん
  さくらコーラス事務局長

司会/中村孝一
(グッドラックとやま発行人)

 

富山ゆかりの偉人として滝廉太郎を顕彰しよう

中村 昨年は滝廉太郎の没後125年を記念し、住居跡に案内看板を設置させていただくことができました。その折は「さくらコーラス」の皆さんに、滝廉太郎作曲の歌で盛り上げていただき、誠にありがとうございます。
 富山では、1978(昭和53)年6月、滝廉太郎生誕100年を記念し、富山県在住の九州人会「おきよ会」が、彼の修学地跡に少年像を建立。これが最初の顕彰活動となったわけですが、当時の改井富山市長は主賓ではなく、来賓で除幕式に出席されているんですね。富山で滝廉太郎は「旅の人」という「よそ者扱い」をずっとされてきたことが、この一つをとってもよくわかります。
 以前、大分県竹田市の観光課を訪ねた折、観光課長から「滝廉太郎が竹田と富山にいた期間は、四捨五入すればどちらも2年なのに、なぜ富山では顕彰しないんですか?」と言われたことが、今でも忘れられません。確かに富山市としては全く顕彰活動をしてきていませんので、「滝廉太郎が富山に住んでいた価値がわからないのですか?」と言われたようで、とても恥ずかしくなり、くやしい思いをして帰ってきたんですよ。
 2006(平成18)年に、当時の富山市ホテル旅館事業協同組合の組合長(当時の名鉄トヤマホテル社長・金澤正雄氏)が「富山市も滝廉太郎の顕彰活動を進め、記念館も市で作ってほしい」と、市長に要望書を出されたのですが、なかなか進展しないのが実態ですね。

小池 滝廉太郎のお父さんは富山県書記官で、いとこの滝大吉は建築家として富山の建造物を設計したわけですから、富山県としてもつながりが深いのですがね。

川田 大吉は富山県の県会議事堂や上新川郡の議事堂の建築設計に関わっていますが、廉太郎にとっても音楽の道へ進むのを手助けしてもらった重要な人物です。

小池 富山とこれだけのつながりがあるのに、県や市としてPRしてこなかったのは、本当にもったいないことだと思います。

中村 『荒城の月』の作曲のモデルとして、竹田市の岡城が有名だったわけですが、実際に訪れてみて、島津の大軍を撃退した「難攻不落の城」と知った時にすごく違和感を感じたんです。土井晩翠が作詞で最も気を遣ったのは、「戦いに敗れし者の悲哀」がこもる「荒れた城」のイメージだったそうですから、堅固な岡城では合わないのではないかと……。先ほどの竹田市の観光課長さんによると、「うちには何の証拠もないんですが、たまたま熱心な人がいて、もしかしたら、ということで碑を作られ、それが一人歩きして有名になったんです」とのことで、やはり地元の人の熱意がいちばん大事なのかなと思います。

小池 とはいえ、市民有志でブロンズ像や案内看板の設置をお願いしても、県や市有地ではなかなか難しいのが実際ですね。

木村 滝廉太郎は富山城内の小学校に通っていたということで、城址公園内にブロンズ像があるといいのでしょうが、公園を整備する際に、既存の銅像をどんどん出していったという経緯もありますし、なかなか難しいでしょうね。

川田 富山市郷土博物館の中に、滝廉太郎を顕彰する一室を作っていただけるといいのですが……。

 

10カ月の滞在で、記念碑を建立したライプチヒ

中村 1978年の少年像建立後の顕彰活動を振り返ってみますと、1991(平成3)年に市民有志により「滝廉太郎ブロンズ像建立委員会」を設置。滝廉太郎記念館が松川沿いのマンションの1室にオープン(現在は松川茶屋内に併設)し、1994(平成6)年に第1回滝廉太郎祭を開催しています。そして、2022(令和4)年にようやく、富山市内の小学生に配布される社会科教科書の副読本に「滝廉太郎記念館」を掲載いただくことができたわけです。そして、昨年は住居跡に案内看板も設置することができました。
 一方、滝廉太郎が留学していたドイツ・ライプチヒでは、2003(平成15)年に没後100年を記念して、彼の下宿跡近くに記念碑を建立しています。碑には「日本の近代音楽の扉を開いた業績は、永遠に輝き続ける」と刻まれ、式典に参加したライプチヒ市長は「日本とライプチヒの架け橋となった」と滝廉太郎を讃えたそうです。滝廉太郎がライプチヒにいたのはほんの10カ月ほどですが、本当に素晴らしいですね。

 

滝廉太郎ゆかりの地を結ぶ通りに愛称を

 また、ヨーロッパでは街の通りにゆかりの偉人の名前をつけたりと、ゆかりの偉人を顕彰しようという気持ちが強いですね。富山も、少年像、記念館、案内看板が近接していますので、これらをつなぐ道に、滝廉太郎をイメージする愛称をつけたらいいのではと思いますが、皆さんいかがでしょうか?

川田 公の通りに名称をつけるのは難しい場合もありますから、まずは城址公園の中の道に「滝廉太郎の小径」か何か、名前をつけてもらえるといいですね。

岡田 京都には有名な「哲学の道」というのがありますが、実際に歩くと、そうなのかなと思ってしまいます。「滝廉太郎」をイメージできる愛称のついた道があれば、富山との関わりを強く意識するようになりそうですね。

川田 哲学者の西田幾太郎が散歩していたゆかりで、その名称がついたんですよね。

中村 あれも民間の発想からではないでしょうか。

木村 通りの名前は条例で決まってしまっていますから、愛称を公募するといいかもしれませんね。

中村 「総曲輪(そうがわ)」という地名は、「お城の周りを囲んでいる堀(外堀)」という意味で、全国的にも珍しいそうです。滝廉太郎が富山にいた明治頃に、この堀の埋め立てが行われたようですが、現在の丸の内の町名のある所は場内とお堀跡です。

木村 私の住んでいる所も、昔は「総曲輪西部六の組」と言っており、いくつかの町内が集まって、丸の内2丁目になったんですよ。富山城も富山城址として残したことで、なんとか残ったんです。

中村 今は内堀の一部しか残っておらず、富山城の変遷について特に学ぶこともないので、一般の市民がほとんど地元の歴史を知らないのは本当に残念なことですね。

 

郷土の歴史を学ぶ機会を大切に

川田 中村さんの呼びかけで、滝廉太郎と富山の関わりについて、かなり広がってきたとはいえ、まだまだ不十分なのかなと思います。小学校の社会科の副読本で、「滝廉太郎記念館」を取り上げていただいたのはありがたいですが、本文の中でも固有名詞を出して、ぜひ富山と滝廉太郎との関わりを紹介してほしいと思います。
 また、郷土のことについて知らないのは、教えられてないからという面もありますので、知る機会をできるだけ多く作れたらいいのかなと思います。

池田 私自身、ずっと富山に住んでいながら、滝廉太郎との関わりについて、ほとんど知りませんでした。昨年、住居跡に設置された案内看板の除幕式では、「さくらコーラス」で『花』と『荒城の月』を歌わせていただいたりと、顕彰活動に参加できることを、とても嬉しく思っています。市民の皆さんに滝廉太郎と富山の関わりをもっと知っていただけるよう、これからも応援していきたいです。

小池 「滝廉太郎記念館」が松川茶屋内にあるということで、松川遊覧船のお客さんが立ち寄られる機会が多いと思いますが、船に乗らない人も記念館に行ってみたくなる誘導の仕組みも必要ですね。せっかく富山市の小学生の教科書副読本に紹介していただいたので、特に市内中心部の小学生にはどんどん来てもらって身近に感じてもらいたいと思います。

木村 私も中村さんからこの町内に滝廉太郎が住んでいたことがあると聞いた時は、とてもびっくりしました。昨年は、町内にある青葉幼稚園さんのご協力で、案内看板が設置されましたが、顕彰活動には住民の理解も必要なのではと思います。また、滝廉太郎の少年像、記念館、案内看板の3つを結ぶ通りに愛称をとのご提案もありましたが、各所から意見を吸収され、皆さんを巻き込んでいく中で、〝自然と通りに愛称が生まれる〟のが一番理想なのかなと思っております。

中村 多くの方に富山と滝廉太郎の関わりを知っていただき、素敵な愛称をつけることができたらと思います。本日は、誠にありがとうございました。

 

▼没後120年を記念し、昨年6月、滝廉太郎の住居跡に建つ「アームストロング青葉幼稚園」東側に案内看板が設置された。

 

▼通っていた附属小学校後に建立された滝廉太郎の少年像。

 

ー 滝廉太郎 年表 ー
1879(明治12)年8月24日 東京都芝区南佐久間町に生まれる。
1882(同15)年11月 父が神奈川県書記官となり、横浜に転居。
1886(同19)年8月 父が富山県小書記官となり、富山市に転居。総曲輪(現在の丸の内)の官舎に居住。
 9月 富山県尋常師範学校附属小学校1年に転入。(7歳)
1887(同20)年2月 父が富山県知事代理となる。
1888(同21)年4月 父が非職を命じられる。
 5月 傷心のうちに富山を離れ、東京へ転居。東京市麹町小学校3年に転入。
1889(同22)年3月 父が大分県大分郡長に任じられる。(廉太郎は、祖母、病弱の姉らと東京に残る)
1890(同23)年5月 廉太郎も、大分に転居。大分県師範学校附属小学校高等科1年に転入。
1891(同24)年11月 父が大分県直入郡長に転じる。
 12月 一家、豊後竹田へ転居。
1894(同27)年5月 上京し、音楽学校受験準備のため芝区愛宕町の「芝唱歌会」に入会。
 9月 東京音楽学校(予科)へ入学。
1895(同28)年9月 同校本科へ進学。
1898(同31)年7月  本科を首席で卒業。9月に研究科入学。
1899(同32)年9月 音楽学校嘱託となる。(20歳)
1900(同33)年6月 ピアノ・作曲研究を目的とし、満3カ年のドイツ留学を命じられる。この年、「荒城の月」、「花」を含む組曲 「四 季」 、「箱根八里」 、「お正月」など、多数作曲。
1901(同34)年4月 ドイツ留学へ横浜港から出帆。
 10月 ライプチヒ王立音学院入学。
 12月 肺結核を悪化させ聖ヤコブ病院入院。
1902(同35)年10月 帰国命令により、ドイツより横浜港に帰省。大分市の父母のもとで療養。
1903(同36)年6月29日 病死。(23歳10カ月)

 

富山と大分での主な滝廉太郎顕彰活動

1978(昭和53)年6月 富山県九州人会が、滝廉太郎の生誕100年を記念し、富山市丸の内1丁目の堺捨旅館(現・マンション堺捨)前に、滝廉太郎の少年像を建立。
1988(同63)年1月 中村孝一が大分県竹田市を訪問、岡城を視察。
 同年4月 松川遊覧船の就航にあたり、松川(当時は神通川)べりの尋常小学校へ通っていた滝廉太郎にちなみ、船を「滝廉太郎丸」、「荒城の月丸」と命名。テーマ曲に『荒城の月』『花』などを選ぶ。
1989(平成元)年1月 『グッドラックとやま』発行人・中村孝一が〝「荒城の月」のモデルは富山城だ〟の新説を『グッドラックとやま』2月号に発表。全国のマスコミにも大きく取り上げられる。
同年9月 全国タウン誌会議富山大会で、創作劇「荒城の月と富山城」を上演。参加者から「埋もれていた宝の発見」と評価を得る。
1990年(同2年)11月 「荒城の月のモデルは富山城」との説が、小学館発行「日本大百科全書」に掲載されることが決定。
1991(同3)年2月 中村孝一が富山県内の文化・経済界および行政関係者に呼びかけ、「滝廉太郎ブロンズ像建立委員会」を設立。(委員長/新田嗣治朗氏)
1992(同4)年4月 大分県竹田市に「滝廉太郎記念館」オープン。
1992(同4)年8月 富山県民会館にて「第1回滝廉太郎祭」を開催(以後、毎年開催)。〝荒城の月誕生のロマンを探る"と題し、シンポジウムを行う。「荒城の月」の詩のモデル・鶴ヶ城のあるタウン誌『会津嶺』とグッドラックが姉妹提携。
1993(同5)年9月 没後90年に富山市丸の内にある滝廉太郎の母校、富山県尋常師範学校附属小学校跡地に「滝廉太郎記念館」オープン。
1994(同6)年4月 松川に大型船「滝廉太郎Ⅱ世号」が就航。
1997(同9)年10月 中村孝一がNHK大分で、「滝廉太郎特集」の番組に出演。竹田と富山の記念館同士の姉妹提携を提案。
2002(同14)年11月 中村孝一が大分県日出町の「滝廉太郎記念講演会」で講演。
2003(同15)年9月 滝廉太郎の没後100年と神通川直線化100年を記念し、松川べりにて「リバーフェスタ」「川と街づくり国際フォーラム」を開催。"水と音楽の都"を目指す。
2011(同23)年3月 『グッドラックとやま』創刊400号を記念し、特集「滝廉太郎来富125周年記念 滝廉太郎と富山」を掲載。
2016(同28)年6月 「滝廉太郎研究会」が発足。
2022(令和4)年4月 富山市内の小学生に配布される社会科教科書副読本に「滝廉太郎記念館」が掲載される。
2023(同5)年6月 住居跡に案内看板を設置。

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