松倉城(魚津)

金山を背景に繁栄

 

 松倉城は、標高約430メートルの山頂に築かれた山城。南北朝の初めより戦国の末まで、室町時代全期を通じて越中東部の中心であったという。越中守護普門俊清、桃井直常、守護代椎名氏、やがて上杉の重臣河田豊前と、建武の中興より加賀前田藩の越中入国まで、約300年間繁栄し、攻防を繰り返した。城下町は山麓の鹿熊村にあって、城主は日常はここの館に住居し、万一の際に山上の城に立てこもった。率いる武士は、多い時には3000と伝えられる。さらに、商人、工匠、職人など集落をつくり、有名な松倉郷の鍛冶、郷義弘もそのひとりのようだ。城下町の繁栄時には人口3万とも伝えられる。戦国時代から前田藩初期へかけて莫大な産出があった松倉金山(鉱山)の金、銀も、松倉城主の財力を非常に豊かにしていたと思われる。
 松倉金山の発見は、応永(1394年)の頃と伝えられ、慶長年間に最盛期を迎えた。新川郡にある他の6つと合わせた越中七金山の合計で、十五万石の石高に相当する金がとれたようだ。加賀藩が、分家の富山藩ではなく、自ら新川郡を支配したのは、こうした鉱山財源が一つの目的であったと推察される。場所は、本丸の裏手になるようだが、危険で、しかも熊の生息地であるため、見学は控えた方がいいだろう。
 近くには角川ダムがあり、ドライブコースとしても最適だ。
〈参考資料/魚津市史〉


▲本丸跡へ至る急な坂道


▲本丸跡から見る裏手の山。松倉金山か?


▲本丸跡から望む富山平野


▲郷義弘顕彰の碑

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