国指定重要文化財 浮田家(富山市)
加賀藩の役宅
江戸時代中期の豪農民家の建築様式を当時のまま残す貴重な建物
浮田家が現在の地に定住した年代等出身について明らかではありませんが、三代宗兵衛が加賀藩から奥山絵図方に任命され、元禄6年(1693年)四代宗兵衛が山廻役となりました。五代宗右衛門の代には草高五百石の収納代官職を千石に加増され、六代覚右衛門の時、奥山廻役を兼帯し、千五百石の代官職になりました。
奥山廻役とは、立山・黒部一帯の山林保護・国境警備を担う役職で、明治3年まで代々浮田家が世襲しました。
文政10年、七代善左衛門のとき三千石代官の格式を有するようになったそうです。
主屋は浮田家文書によると、文政11年(1828年)の上棟。表門は、入口側柱に天保5年(1834年)の祈祷札があり、天保頃に建てられたと考えられます。(いずれも、約180年前)
さて、この浮田家ですが、備前岡山の城主・宇喜多秀家と関係があります。秀家のもとに前田利家の四女豪姫が嫁ぎ、宇喜多家と前田家は近い親戚関係となりましたが、秀家は関ヶ原の戦いで破れ息子とともに八丈島に流されてしまいます。前田家は肉親の情堪えがたかったのですが幕府をはばかり正式に通信連絡することができず、宇喜多家と最も縁の深い宗兵衛を召して間接的に連絡をとらせたと言われています。宗兵衛の家系である当家は宇喜多の一族ということから「浮田」の文字を用いているということです。
参考/浮田家パンフレット、解説板など
▲浮田家主屋正面
▲立派な表門
▲24畳もの広さをもつ広間。巨大なケヤキと松の梁を縦横に組んだ豪壮なつくり。広間の玄関には式台玄関がある
▲庭園「一心園」
▲囲炉裏。今でも火を入れる。防虫と木を長持ちさせる効果があるそう。
▲庭園越しにのぞむ栂の大木。樹齢300年以上。代々浮田家の守り木である。