前田普羅 句碑、藻谷銀河 歌碑(富山市)

城址公園、城址大通り沿いに立つ

 城址公園の城址大通り沿いには、高浜虚子門下の四天王の一人と称され、俳句結社「辛夷」を主宰した前田普羅の句碑(写真右)と、郷土文化誌『高志』に集った歌人・藻谷銀河の歌碑が立っている。お二方とも富山大空襲に罹災し、普羅は富山永住を諦めるきっかけの一つとなり、銀河は火傷を負い1週間後に亡くなっている。

▲前田普羅の句
わが俳句は俳句のためにあらず、更に高く深きものへの階段に過ぎず

※天皇陛下は普羅がお好きで、皇太子時代の2015年、ニューヨークの国連本部で開かれた「水と災害に関する特別会合」において、普羅の「立山のかぶさる町や水を打つ」の句を通して水の恵みと平和の大切さを訴えられた。

▲藻谷銀河の歌
夕まけてこゝろ寂しくなりにけり遠く澄みたるひぐらしのこゑ



【追記】

廣瀬誠さんが、商工とやま(平成14年10月号)に「立山のかぶさる町や水を打つ」の句がどのように生まれたか、について、とても素晴らしい文章を書いておられました。

『 立山連峰の山々峰々は残雪をちりばめて夏空に突っ立ち、街の上におしかぶさるように迫ってくる。街の両側の老舗は昔ながらのノレンを下げて店は暗いほどだ。夏の烈日の下、あちらでもこちらでも、店先の道路に水を打っている。
 富山市の中町から東四十物町へかけての道(現・中央通り商店街)。この道に立ちどまり、立山を仰いで感嘆のため息をつく人があった。関東大震災で資産一切を焼失し、翌大正13年、報知新聞富山支局長となって富山へ赴任してきた前田忠吉その人であった。
 前田はホトトギス派の俳人。普羅と号し、高浜虚子門下四天王の一人に数えられた俳句の達人であった。
 普羅は立山のそそり立つ富山の風土にすっかり惚れ込み、昭和4年、新聞社を退き、富山永住を決意。富山市郊外奥田村(現・富山市)に普羅庵を新築してここに住み、俳誌『辛夷』を編集主宰し、富山県俳壇を指導した。
 中町通りから立山をあおぎ見たとき「立山のかぶさる町や」の句が普羅の口をついて出た。しかし下の句を何と据えるべきかを案じ悩み、「立山のかぶさる町の日除かな」ともしてみたが、2〜3ヵ月練りに練って

立山のかぶさる町や水を打つ

の名吟を成した。苦心に苦心を重ねながら「これは作った句ではない。発見した句だ」と普羅は思ったという。』

なお、現在は、アーケードが架かってることもあり、中央通り商店街から立山連峰をのぞむことはできない。

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