明神峠越え(富山市)
呉羽山を越える旧北陸道の峠道
呉羽山越えのルートはどのような変遷をたどってきたのでしょうか?
富山市郷土博物館の「博物館だより第五十一号」によると、中世には現在の富山市民俗民芸村付近から越えていたようです。近世(1568年〜1867年)には「明神峠越え」と言われる南のルートになりました。脇には七面大明神と七面堂の他、前田正甫が建立した武運山長久院もあり、多くの参詣者で賑わったそうです。
その後、明治11年の天皇行幸に際し、明神峠越えでは道幅が狭く坂も急なため、新道が開削されました。大正8年に大改修も行われましたが、昭和10年に新道を分断する形で切り通しが開削され、現在の県道富山高岡線となる道が完成したということです。
▲金刀比羅社の「常夜燈」