呉羽の三茶屋(富山市)


▲富山道の稲荷社方面をのぞむ。「この道路行き止まり」の看板があり、稲荷社下で舗道は終わる(現在、かつての峠越えができるように工事が行われている)。

 

 

暖かい日は、里山散歩などいかがでしょうか?今回は、富山藩時代の呉羽山越えで賑わった3つの茶屋街に思いを馳せてみましょう。
 ご存知の方も多いと思いますが、この頃の高岡からの北陸道は、大手崎(射水市手崎)において、北東へ向かう官道(加賀藩の参勤交代は富山藩領を避け、この道が使われた)と、南東の呉羽山を目指す富山道とに分岐していました。三茶屋は、この富山道の呉羽山をのぼる途中にありました。
 天保ごろの「呉羽三茶屋絵図」(富山県立図書館所蔵)には、追分茶屋「家数39軒、男65人、女79人」、中茶屋「家数51軒、男100人、女95人」、峠茶屋「家数12軒、男27人、女23人」と記されています。また、加賀藩、文政13(1830)年公撰の「三州地理志稿」では、「追分茶屋、中間茶屋、嶺茶屋」と漢文的用字で記載されています。
 安永4(1775)年の「乙未の春旅」では、「追分あり、是より姉負郡、桜咲き、松ありてよし」「是より富山へ松の並木あり」「中茶屋、峠、是より下り」「南に飛州の高山見ゆ」「東に立山、すべて東南の諸山皆雪なり」と追分から富山町に入るまでの街道の様子を描いています。なお、これを書いた高山彦九郎は、婦負郡を姉負郡と書いています。
 呉羽といえば、呉羽梨が有名ですが、これは、明治40年に吉作の土池弥次郎が東京から「長十郎」梨の苗木を取り寄せて植栽したのが始まりで、のち新品種「幸水」を導入し、現在に至っています。それ以前は、呉羽丘陵の西側一帯は、茶畑が多かったそうです。売薬創始者として有名な富山藩二代藩主・前田正甫が始めたという伝説も残っているとか。十代藩主・前田利保は、僧月効を山城国宇治に派遣して、製茶栽培を学ばせ、天保年間(1830〜43)に従来とは段違いの優れた茶を栽培させました。こんな歴史も想像しながら、このあたりをのんびりと歩いてみませんか?
参考文献/「神通川と呉羽丘陵」(廣瀬誠著・桂書房)

 

 


②富山道と巡見使道の分岐点(追分)から少し入ったところに神明社がある。
③神明社の鳥居の脇にある石柱道標。だが、もともとこの場所に立っていたものではないという。「立山道」「小杉道」「城端水戸田道」と刻まれているそう。

 


④分岐点にある地蔵堂。見ることはできないが、右側の土蔵の台座に、「右ハ金沢道、左ハミと田道」と刻まれているそうだ。
⑤「明治天皇中茶屋御小休所」と刻まれた石碑。横に、「明治11年北陸東海御巡幸の際10月1日御小休所となりたる…」と由緒を書いた案内板が掲げられている。

 


峠茶屋馬頭観音
峠茶屋の坂道で荷馬車をひいた馬方が馬車組合をつくり、その組合が馬に感謝しいたわる気持ちから馬頭観音を建立し、愛馬の冥福を祈った。


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