雪見橋(富山市・いたち川)
藩政時代の「表の橋」
いたち川に架かる「雪見橋」は、慶安の頃(1648〜1651)に、富山藩初代藩主・前田利次が架け、以後、富山藩費で維持された。北陸道の重要な橋で、「大橋」とも、「表の橋」とも呼ばれた。富山藩主が、浄禅寺・天満宮などへ参詣する時は必ずこの橋を渡り、帰途は、下流にある「裏の橋」(月見橋)を渡る慣例であったという。
南画の大家・池大雅が富山に逗留した時、この橋のたもとを訪れ、雪の立山連峰の雄姿に感動し、その絵を描いたので、「雪見橋」と名付けられたともいわれる。
明治25年、この橋が木鉄混製の吊橋構造に改築された時、あらためて正式名称として、「雪見橋」と命名された。大正7年には、鉄筋コンクリート橋となり、昭和5年には、市電が上を走るようになった。
昭和50年には、根本的に改造され、橋幅が拡張された。ただ、古雅なデザインが施され、富山藩が創設し維持した由来にちなんで、梅鉢の紋がちりばめられた。これが現在の雪見橋である。
雪見橋の下流に架かる裏の橋は、「月見橋」と名付けられ、さらにその下流の橋は、「花見橋」と名付けられた。「花見橋」は、上流に、月見橋、雪見橋があることから、『和漢朗詠集』の「雪月花」にちなみ名付けられたようだと案内板にある。また、「花見橋」の橋柱は、戦災で落橋し、川底から引き上げられたもので、大正8年から昭和3年まで富山市長を務めた牧野平五郎の筆によるとのこと。
参考文献/「神通川と呉羽丘陵」(廣瀬誠著、桂書房)、案内看板
▲雪見橋。遠くに雪をいただいた立山連峰が見える。
▲雪見橋につけられた丁子梅鉢の家紋(上)と雪見橋の由来が書かれたプレート
▲富山城、旧北陸道と、雪見橋、月見橋、花見橋
▲月見橋(右)と花見橋(左)