筋違(すじかい)橋、架分(かいわけ)橋(富山市)
富山城下と城下外、富山藩と加賀藩の境目
安政4(1857)年4月、当時富山藩の藩政を握っていた江戸詰家老・富田兵部(とみた・ひょうぶ)に突然帰国が命じられ、帰途の途中の駕篭の中で白装束で割腹した事件が知られていますが、その場所が、今回ご紹介する「筋違橋」です。この橋は、富山城から旧北陸道を東に進み、いたち川の雪見橋を渡り、柳町から稲荷町に入ったところにある奥田用水に架かっています。ここが、富山城下と城下外との境目で、板橋を筋違いに張り渡してあったそうです。
この「筋違橋」から北東方向に数十メートルの赤江川に架けられた橋が、富山藩領稲荷町と加賀藩領綾田の境目で、橋の名前は、「架分橋」または「お出合い橋」と呼ばれました。橋は、両藩で工事も管理も分担しました。富山藩領の部分は丸太材の欄干の質素なものでしたが、加賀藩側の角材の欄干は覆蓋までかけた堂々たるもので、十万石と百万石の差をまざまざと見せつけるものだったということです。
富山の町民が旅立つ時、西へ向かう時は呉羽山、東へ向かう時は、この赤江川の「架分橋」のたもとで見送ったそうです。
なお、唐の国・長安の都の郊外にある灞水(はすい)に架かる「灞橋」は、長安の人が旅立つ人を見送った場所だったそうで、この故事にならって、架分橋のことを「灞橋」とも称したそうです。
富山県の初代県知事・国重正文氏は、長州の人で、明治16年に赴任し、明治21年に内務省社寺局長に栄転しましたが、富山県人は深く別れを惜しんで、盛大に見送り、漢詩82篇、和歌57首、俳句38句の送別詩歌を一冊にまとめて、国重氏に贈ったそうですが、その詞華集の名を『灞橋之余音』としたのは、このような故事からであったそうです。作者130余名のうち、富山県独立運動の指導者の米沢紋三郎は、「令名、剱峰・神水と長(とこしなえ)に中越に存す【国重の名は剱岳・神通川とともにいついつまでも越中に語りつがれ、ほろびない、の意】」と絶賛したといいます。
▲筋違橋と銘板
▲赤江川橋と銘板
▲赤江川橋近くの「綾田稲荷神社」