一夜泊(いちやどまり)稲荷神社、成正霊王(立山町)
佐伯有頼と佐々成政ゆかりの場所
佐々成政が有名な佐々堤を築造した2年後の天正11年(1583)8月、常願寺川が氾濫し、堤防決壊が約30キロに及び、260戸の家屋が流失した。なかでも、下流の右岸地帯の被害が甚大で、成政は常願寺(富山市)に本陣を置いて、陣頭指揮をしながら堤防(利田堤)を築いたという。
ところが、無理がたたって病になり、重体におちいってしまった。心配した人達が、近くにある社の祭神が薬草の神・少彦名命(すくなひこなのみこと)であることを知り、社に病気平癒を祈願した。
おかげで病は快方に向かったことから、成政は社の神を厚く信仰し、社殿を造営した。「さらさら越え」決行の際も、立ち寄って祈願したという。
江戸時代に入って社は度重なる水害で流失したが、地元の人々は治水に尽くした成政が信仰した社として語り伝えていたそう。
天保3年(1832)、富山9代藩主・前田利幹(としつよ)がこの地で鷹狩りをした時、土地の人々から成政が深く帰依した霊験あらたかな社があったことを知り、「成正大明神(成政の転化)」を祭神として、「浄正社」(成政社の転化)を再建した。
すぐ近くに「泊(とまり)の宮」があり、立山開山の佐伯有頼が一夜泊まったことから「一夜泊」と名付けられていた。
明治4年、浄正社と泊の宮が合併して一夜泊稲荷神社が造営されたという。
なお、浄正社跡には、「成正霊王」が祀られている。
※今回、遠藤和子さんの『佐々成政』の説明を主としたが、一夜泊稲荷神社の案内板では、成政が病気になった時に、夢に泊の稲荷大明神が現れ、成政公が帰依し、家人を使わして祈願したところ病気が平癒した、と書かれている。
参考/『佐々成政』(遠藤和子著)、案内板など
▲一夜泊稲荷神社。境内に成正大明神の碑があるそうだ。
▲「一夜泊」というバス停が近くにある。
▲「成正霊王」という石柱がある、「浄正社」の跡。