八田ノ瀬跡 〈いたち川八田橋付近〉(富山市)
成政が巨木を積んだ場所
天正9年(1581)、織田信長配下の佐々成政は越中半国を与えられ、翌年には越中一国の守護となり、富山城に大規模な改修を加えて居城としました。
この時、成政は富山城を堅固な浮城にするため、その頃井田川の出水により蛇行するようになった神通川の蛇行開始部分に巨岩を積み重ねて頑丈な石垣堤防「早瀬の石垣(はやせのかいき)」を築いて蛇行したままの状態で川筋を固定するとともに、下流の八田ノ瀬には巨木を積んで、有事の際には神通川を天然の外堀にできるようにしたと言われています。巨木は、上市町の眼目山立山寺から運ばれたそうです。
その八田ノ瀬があった場所が、現在のいたち川の八田橋付近とみられます。
この場所は、江戸時代、近江八景になぞらえた神通八景(八景とは、ある地域における8つの優れた風景を選ぶ、風景評価の様式)の一つで、佳人墨客(美しい女性や、書画をよくする人)が風雅を楽しんだそうです。
前田正甫公の第七子、前田利郷は、剣道、書道、歌学に長じ、次のような歌を詠んでいます。
釣する人の打つれて
一本の松の嵐に晴行程、
八田の晴嵐〈晴天の日立ちのぼる山気かすみの佳景〉
参考文献/月刊グッドラックとやま2003年9月号『馳越線100周年記念特集3 遠藤和子さんに聞く 成政と神通川』、案内看板